【鹿児島県鹿児島市】フラットに創り上げていく、温かなはじまりの場所 / デザイン事務所 atelier SALAD -前編-
インタビュー
鹿児島県鹿児島市にてデザイン事務所『atelier SALAD』を運営されている徳永孝平さん(以下:孝平さん)・栫井寛子さん(以下:寛子さん)ご夫妻。そんなお二人から鹿児島でデザイン事務所を立ち上げられた背景や今のお仕事をされる上で大切にされていること等を伺いました。
建築の道へ
孝平さん:僕は佐賀県武雄市出身で、元々は学校の先生になろうと思っていました。高校生の進路を決める時期に、友人の家に遊びに行ったのですが、そのお父さんが工務店を営なまれていて、とても素晴らしい家だったんです。
それまで職業選択で迷っていた僕にとって、建築の道を目指そうと思った大きなきっかけでした。
寛子さん:私は鹿児島市の高校に通っていました。周りは“大学に行って、会社員or公務員として勤める”道を選択する人がほとんどでしたが、私は漠然と「OLになりたくない」「考えたことを形にする仕事をしたい」と思っていました。
いろいろと考える中で、小さいころから絵を描くことが好きだったのと、建設会社を経営している父がよく連れて行ってくれた建築現場の記憶を思い出し、建築の道に進みたいと思うようになりました。
寛子さん:結果、いろいろあって土木学科に入学したのですが、元々、建築を学びたかったこともあり、建築学科に潜入して授業を受けるようになりました(笑)。
次第に、しっかり建築の勉強がしたくなり、土木学科を卒業後は建築学科に入学し直す選択をしました。そこで、夫と出会うことになります。
私と夫は年齢が3つ離れており、生まれも鹿児島と佐賀で、本来交わるはずのなかった二人でしたが、今では夫婦となり、一緒にデザインの仕事をさせてもらっています。
孝平さん:大学時代、妻とは一緒に色々な制作や研究をしました。課題があれば皆で学校に泊まって制作したり、制作の資金稼ぎのためにアルバイトをしたり、結構忙しくて。
そんな日々を過ごす中で、二人ともデザインすることにのめりこんでいき、建築家になりたいという想いが増していきます。
でも、建築の道を歩むことは生活の安定が保証されているわけでもないし、成功するとも限らない。同級生が60人程いたのですが、独立してデザイン事務所を立ち上げる道を今歩んでいるのは、片手で数えるくらいかもしれません。
我が子のように愛する気持ち
寛子さん:大学卒業後、東京の設計事務所へ就職したのですが、自分の考えていたことと違っていて、「私には建築の世界が向いていないのかもしれない」と感じ始めました。そこで一旦その事務所を辞め、次の道を模索しようと考えたんです。
その年の秋、鹿児島へ帰省し、ふと桜島を見たいなと思い、散歩をしたんです。ボーッと桜島を眺めていると、次第に込み上げてくるものがありました。それは「建築の道を志そう」と決めた高校時代のピュアな気持ちでした。
「鹿児島に温度感のある建築を作りたい」「お施主さんも私も「心から楽しい」と思える建築をつくりたい」って。そういうことができる環境がきっと建築の世界にもあるはずだと思い、以前から気になっていた方に連絡をすることにしました。
寛子さん:連絡をとったのは広島にある『SUPPOSE DESIGN OFFICE Co.,Ltd.』(以下:サポーズ)代表で建築家の谷尻誠さん(以下:谷尻さん)でした。谷尻さんにお会いして一番驚いたのは、建築について楽しそうに話していたことでした。
20分ぐらいマシンガントークのように話す姿はとてもキラキラしていて…。その時に「相当忙しいけど、その覚悟があるなら、ウチにおいでよ」と言っていただいたのがきっかけでサポーズに合流させてもらうことになりました。
そこから建築に対する考え方がガラッと変わり、“ものづくり”ではなく“ことづくり”という思考になっていきました。もう一人の代表で建築家の吉田愛さん(以下:愛さん)も谷尻さんもつくるものに対して愛がすごくあるんです。それはまるで本当の我が子を愛するかのように。
完成して終わりではなく、お施主さんと一緒に未来のことを長い目で考える姿勢がいいなと感じました。サポーズで感じた建築は“独りよがり”ではなく、お施主さんと一緒に考えていくので、設計というよりはプロジェクトを企画していくような感覚でした。
どう相手の心を動かせるか
孝平さん:大学院卒業後、周りが東京に就職する中、僕は上海の設計事務所で働くことにしました。興味本位というか、言葉が通じない厳しい環境で働くことで、どんなことができるか試したかったんです。
そこからは怒涛の日々で、日常生活においても、建築においても、僕の常識が全然通じなくて…。外国人と5人でルームシェアしながら生活していたのですが、今思えば、色々よくわからない状態で必死に過ごしていたなと思います。
事務所の所長には多くのことを教えてもらいました。特に今でも印象に残っているのが「言葉が通じなくても、設計はできるんだよ」とおっしゃっていたことです。
通常だと、お施主さんに対して、様々な資料を準備して順を追って説明していきます。でも、所長は「そんなのは必要ないよ」「絵さえあればいいんだ」と建築のスケッチだけで説明していました。きっと、そこには言葉を超えていく力があったのかもしれません。
孝平さん:友達もいない。言葉や文化もわからない。そんな状況で、絵で相手を納得させる術を所長の背中をみて学びました。完璧な真似はできませんが、それは日本に帰ってきた今でも活きています。
建築分野以外の方に専門的なことを伝えても分からないことだらけです。それより「どう相手の心を動かすか・ときめかすか」、そこなのかなと思っています。この観点で仕事ができるようになったのは、敢えて言葉が通じない環境に身を置いていたからなんだと思います。
僕は元々「両親を楽にさせてあげたい」「育ててくれた感謝を伝えたい」気持ちが強くて、自分のためではなく、両親のために働こうと考えていました。
そのためには日本の大企業に入ったほうが良いのかなと思っていたのですが、両親からは「自分のやりたいことをやったほうがいいよ」「あなたがやりたいことをやっていることが一番の親孝行だよ」と背中を押してもらって、気持ちがすごく楽になりました。
だからこそ、上海でも全力で過ごすことができたんだと思います。どんな時でも味方でいてくれる人がいることは嬉しいことですよね。
経験を社会に還元したい
孝平さん:まだ僕が上海にいるときに結婚して、2020年に子供も授かりました。その頃ちょうど中国でコロナが流行りだしたのもあり、「子育てをするなら、妻の実家がある鹿児島がいいのでは?」「鹿児島を拠点にするなら、自分たちの事務所をもつべきなのか?」と将来のことを真剣に考えるようになりました。
僕は社会人になってから日本での仕事経験がなく、鹿児島に縁もゆかりもないし、仕事の広げ方に不安があって、子供のことや生活力も考えると、民間会社に転職したほうがよいか迷っていました。
寛子さん: 私は「何とかなるよ」って夫に言い続けてました(笑)
でも、鹿児島出身の私も、高校を卒業してから10年以上鹿児島を離れていたわけで。
鹿児島の文化や今求められるものを理解しているわけでもないし、正直、浦島太郎状態でした(笑)。
孝平さん:次第に、「僕らが培ってきた知識や経験、それらを故郷や住んでいるまちに還元できたらいいよね」と思うようになったんです。不安もありましたが、周りからの後押しもあり、2021年3月に鹿児島を拠点に、デザイン事務所『atelier SALAD』を立ち上げることにしました。
寛子さん:『SALAD』には2つ意味があります。
1つ目は、食べるサラダです。サラダそのものは、フレッシュでみずみずしい感じや若さ、エネルギーの放出を感じさせます。
2つ目は、『Social And Local Architecture Design』、それぞれの頭文字をとって『SALAD』にしました。
夫は上海、私は広島。「目の前のことをやるしかない」状況が何年もありましたが、これまでの経験を社会に還元したいという想いを込めています。
後編では、事務所立ち上げ初期の不安を吹き飛ばすような出来事や、お二人がお仕事をされている上で大切にされていること等を伺っていきます。
(後編へ)
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