【鹿児島県湧水町】お茶を追求し、皆が潤う循環を / お茶の野本園 野本沙織さん
インタビュー
鹿児島県湧水町にて『お茶の野本園』(以下:野本園)としてお茶の販売や商品開発をしつつ、鹿児島食材ハンターとしても活動されている野本沙織さん。そんな野本さんから現在の活動に至った背景等を伺いました。
思いとおりにならない道
「小さい頃からお転婆で、思い立ったらすぐ行動するタイプでした。それは今でも変わらないです。」
取材冒頭、自身のことをそのように話された野本さん。
湧水町・栗野岳近くのお茶農家の娘として生まれ育ち、幼い頃からご家族と一緒に山で遊んでいたそうです。
お転婆な性格だったからか、ご両親や学校の先生たちに心配されることも多かったといいます。
「持ち前の性格の上に勉強もできなかったので、高校の先生たちに卒業後の進路についてとても心配されていました。教員になって、母校に戻って一緒に仕事しようとおっしゃってくださった先生もいて。」
「将来何をしようかは全然決めていませんでした。実家のお茶農家についても、当時は全く継ぐ気が無くて…。結局、スポーツトレーナーを育成する広島の専門学校に進学することにしたんです。」
「実は、大学2年の終わりぐらいに交通事故に遭ったんです。右足の骨を全部粉砕してしまい、その影響で卒業するタイミングは遅れ、希望していた大学への編入試験の時期も逃したりと大変でした。」
退院後、知人を介して沖縄で就職。
3年程働いた後、ご家族の介護の関係で湧水町へ戻ってくることになります。
そこからは介護をしながら、地元の飲食店でアルバイト生活でした。
当時、ビーズアクセサリー(以下:ビーズ)が流行していて、お母さんに作ってあげたところ「可愛いね」と喜んでくれたといいます。
「最初は少しでも生活費になればと思ってプラスチックでビーズを作ってバイト先にて販売を始めました。すると、思った以上に売れて、私の中の追求心に火がついたんです。」
「さらに良い品を追求し、海外の高価な材料も仕入れて、多い時は月に3000点程作り販売していました。これは本業としてやっていけるのではと思いました。」
「ダメ元で全国展開している店舗へ営業にいったところ取り扱いができるようになりました。そこでも人気で、ありがたいことに事業は順調でした。」
「でも、その会社が急に倒産してしまって…。その影響で私も大きな損害を被ってしまったんです。そこからは気持ちが落ちるところまで落ちて、何もしたくない日々でした。」
そんな野本さんに手を差し伸べてくれたのはご実家のお母さんの一言でした。
お茶を追求し、返していく
「気晴らしにお茶の販売を手伝わない?」
お母さんのその一言から野本園の販売サポートに回ることになります。
「接客をするたびに楽しいなと感じました。お話すると買ってくださって、その度にワクワクしたんです。」
その後、町役場から湧水町のPRを兼ねて催事へ行かないかと誘いを受けます。
場所は鹿児島中央駅横のアミュ広場。
そこで、月に2回の出店を3年間続けました。
「当時、アミュ広場でお茶農家が出店して販売していたのは私だけでした。同じ空間にいたのはお茶以外の生産者や企業ばかりで、それが刺激になったんです。」
「商品を並べるディスプレイやパッケージ、お客様への声かけ等、学べる部分は全部吸収して、自分なりにアレンジしてアウトプットしていきました。」
「どのような売り方がお客様にとって、居心地が良く、購買意欲を高めることに繋がるのか。また買いたい・来たいと思ってもらえるにはどうしたらいいか。そこを追求していったかと思います。」
しかし、そんな野本さんに悲劇が襲います。
知人から「大きなロットでお茶を仕入れてくれる会社がある」と紹介してもらったところ、そこは何と架空会社だったのです。
そこでも大きな損害を被ってしまい、ご家族との関係も悪化してしまったといいます。
「あなたを信じることはできない。」「お茶の仕事をしないでほしい。」等といった言葉を浴び、泣き崩れる野本さん。
それでも、周りの仲間たちが色々と助けを受けながら少しずつ立ち上がることができました。
「騙されたことで私の心に火がつきました。お茶でやられた分をお茶で返すって。」
「販売の手伝いを始めた時は、ずっと湧水町にいるつもりはありませんでした。でも、この件がきっかけで本格的にお茶の仕事に目覚めたんです。」
そこからはお茶という分野や地域を越えて、様々な人たちと手を組んで精力的に活動を展開していきます。
その中でも力を入れているのが商品開発でした。
「お茶と何を組み合わせたら良い商品ができるのか?」と考えていく中で、ある出会いが野本さんの運命を大きく変えていくことになるのでした。
7年間繋いでいくことで
それは『坊津の華』の生産者との出会いでした。
「お茶と塩が合うのでは?」と考え、県内各地の塩で色々試していたところ、お世話になっていた人からオススメされたのがきっかけで直接会いに行ったといいます。
「初対面の私を生産者でもあるご夫婦は優しく迎えてくださいました。ご主人さんの笑顔と奥さんの優しい口調で「よし、ここだ!」と思ったんです。」
「通常の塩は辛さからやってきます。でも、『坊津の塩』は辛さよりも旨味が先にやってきたんです。本当は見学だけのつもりだったのですが、その場で契約を申し出ました。」
「私が作りたい商品について伝えるとご夫婦は背中を押してくれました。その日から商品として完成するまで3年かかりました。」
その後、酸化対策やパッケージデザインを周りの人たちにお願いしながら進め、商標登録については何と全部独学で学び、自身で手続きを行いました。
試行錯誤を繰り返し、野本園として最初の商品である『きざみ茶塩』が完成したのです。
あるお土産コンクールに出展した時のこと。
そのコンクールでは審査員に専門家から半分、一般客から半分、それぞれ投票を行う形式だったそうです。
出展されている商品は200以上。
その中で『きざみ茶塩』は人気投票トップ10に選ばれたのです。
「その瞬間、心の底から「やった!」と思いました。私の投票は審査員よりも一般客の割合がすごく多かったんです。」
「一般客が唸るということは、消費者が唸るということです。だから、自信を持つことができました。そこから他の商品開発もチャレンジしてみようと思えたんです。今では全部で50以上の商品を作ることができました。」
「『坊津の塩』の生産者さんから最初に言われた言葉が今でも忘れられません。7年間は商品をちゃんと作り続けなさいって。そうすれば、勝手に商品は歩いていくよって。」
「だから、お客さんが長く求めてくれる商品を作ろうと思い、『きざみ塩茶』はもう15年作り続けています。」
失敗を恐れない
野本さんは今年の11月25日〜26日に開催される『かごしまお茶マルシエ』の企画運営に携わっています。
催事を通して仲良くなった生産者や自身が気になった生産者やお店へ直接出向き声をかけ、出店者を毎回集めているそうです。
「今回で3回目の開催なのですが、このイベントが始まるまでお茶農家だけにピックアップされたものは鹿児島にはありませんでした。」
「今までイベントに出店したことがない方、もしくは、これから色々な場面で出てきそうな若い方に声かけをしています。私もですが、出店してくださったみなさんにとって次に繋がるきっかけになれたら嬉しいですよね。」
野本さんはどのようにしてこのような繋がりを築きあげてきたのでしょうか。
「独特な商品開発をしているからか、色々な人にノウハウ等を聞かれるんです。それを包み隠さずオープンに話しています。」
「色々な業種や地域の方と繋がると、私がいない場所でも「それなら野本沙織さんに聞いてみるといいよ」と話になるみたいです(笑)。よく、“ご縁屋”とか“繋ぎ屋”って言われます。」
「私にとって軸は湧水町ですが、“オール鹿児島”で動かないといけないと思っています。地域や業種が違えば、それぞれの魅力がたくさんあるし、求めているものも変わってきます。そこを循環させていけば、皆が潤っていくんじゃないかって。」
「ありがたいことに私の周りにはダメなことでも正直にアドバイスくれる人たちがいます。辛いこともありますが、そのような人たちがいるからこそ、さらにブラッシュアップされているんだと感じています。」
「最近は20~30代の若い方ともお仕事する機会が増えていて、新しいヒントやご縁をいただいています。知人を通して紹介してもらった若者とはご縁がさらに広がって、お茶をカナダで販売させてもらう機会もいただきました。」
「やってみないとわからないことはたくさんあります。生きてきて色々な失敗をしてきたけど、得るものは必ずあって、今でもそれが活き続けているんです。だから嘘はつけません。」
「これからも迷惑をおかけすることも多いかもしれません。それでも、ご縁を大切にしながら「これだ!」と思ったことを追求し、お茶を通して、お世話になった人たちやこれから出会うであろう人たちに様々な形で返していきたいです。」