【山形・連載】まちを旅して、犬と働く。vol.3 桜の霞城公園
連載
旅にでる、きょうもまた。
犬といっしょに働くことのできる夢のオフィスを求めて、犬とふたりの旅にでる。あてもなく山形市内を彷徨いながらも、このまちのどこかにオフィスとしての可能性を見出して、犬と共にいい仕事を成したい。リュックにPC、保冷バッグ、おやつとエチケット袋を詰め込んで、さあしゅっぱつ。今日は歩く。山形市内をただただ歩く。歩いてやがてたどり着いたその場所をワークスペースに変えてみたい。
あかるい陽差しに照らされたある春の日の午後、微かな風を感じながらテケテケと歩きだす。道ばたに芽吹いた植物の匂いを嗅ぎたいと、犬はいちいち立ち止まってスンスンする。こんな調子で、諏訪町をゆき、本町をゆく。山形市のまんなかを東から西へ、テケテケし、ときにスンスンし、ゆるゆると移動してゆく。
香澄町から城南町へと渡るときに線路うえから見えたピンク色に染まる森…、あれは霞城公園(かじょうこうえん)。かつて山形城がそこにあったというその霞城公園はぐるりとお堀に囲まれており、その内側をまたぐるりと桜の木々が囲い込んでいる。その数1500本ともいわれるそのソメイヨシノがいっせいに咲いているのだ。きっと間近で見ればさらに見事であろうその風景のある場所にまるで吸い寄せられるかのように、犬の足と人の足は共に歩みを進めていた。
桜の名所として知られるだけあって、ちょうど満開のときを迎えていた霞城公園はとても賑やかだった。広げられたレジャーシートのうえに車座になって飲み食いしている市民の姿がたくさんあった。すこし懐かしいようなあるいはちょっと新鮮なような気持ちでそんな風景を横目で見ながら通り過ぎ、公園の奥へ奥へと進んでみる。
賑やかなところもちゃんとある。その一方で、ひっそりと静かに楽しめる余地もちゃんとある。それが山形市のいいところ。どうやら霞城公園ひとつをとってもそれはおなじで、花見で盛り上がる喧騒地帯を過ぎてしまえばほどなくして春風に花びらが揺れ落ちる音さえ耳に届いてきそうな静かなエリアに辿り着いた。そうか、ここが今日の目的地であったのか、と気づいた。
誰もいない桜の下に腰を下ろし、背中のリュックを下ろすと、犬も「やれやれ」という感じでいくつもの小さな花びらが散り敷かれた地面にペタリと座り込んだ。
「さて、ここでなにして遊ぶんだヨゥ」という感じでこっちをじーっと見ている犬の視線を感じながらもとりあえず気づかないふりをする。遊ばないよ、仕事だよ、霞城公園の桜の花の満開の下という最高に春らしいこの場所が我らのオフィスなのだよ、と、PCを取り出し、開く。いくつかのメールを受信し、内容を確認。なるほど、急ぎ対応すべきことがある。すぐに取り掛かろう。どう進めればいいのかの道筋までもクリアに見える。春風と桜のおかげで思考までキレイになったのだろうか。あとはやるべきことをただやるだけ。
なのだが…。ちょっと、おかしい。いつもは「はやく遊べヨゥ、遊べヨゥ」と必死に訴えかけてくる犬が、やけに静かだ。桜の匂いを楽しんでいるのか。風流を感じているのか…。おとなしすぎて、静かすぎて、やけに気になる。完璧な静寂がかえってうるさく感じられることがあるように、犬がおとなしすぎて集中できないなんてことがあるのだ。
PCを閉じケースに入れリュックに仕舞う。同時にリュックから保冷バッグを取り出す。なぜだろう、そこには冷えたビールが入っている。フタを開けると「プシュッ!」と大きな音が響いて、白い泡が勢いよく飛びだした。溢れ落ちそうなその泡に慌ててフタをするようにゴクリゴクリと飲み込んだ。
霞城公園の桜がこうも美しく咲いているのだから。犬がこうもおとなしいのだから。だから仕方ない。こういうこともある。こういうことになるのも当然。こうならなきゃむしろおかしい、と言い聞かせつつまたひとくちビールを飲む。リュックに再び手を伸ばす。なぜだろう、お団子が入っている。ずんだを食べる。すごくおいしい。犬にもおやつ。完璧なお花見となっていた。
パタゴニア創業者イヴォン・シュイナードは「いい波が来たらサーフィンに行こう」と本の中で語っていたが、それはおおよそ「霞城公園の桜が咲き誇っているならお花見をしよう」ということに似てもいるのではないのか。巡りゆくときのなかで千載一遇のチャンスが来たならそれをしっかりと迎え入れてこそ人生を楽しむことができるし、そういう体験をしてこそいい仕事ができるのだよ、と彼は言っていたのではなかったか。そしてまた、そういうことができるフレキシブルなワークスタイルの必要性を説いていたのではなかったか。まさにその通りかも、と、2本目のビールをあけ、2本目の団子(くるみ)を食べながら考えていた。
風がほんの少し冷たくなり、陽がわずかに傾きはじめた。ビールと団子が胃袋に移動したぶんだけちょっと軽くなったリュックを背負って、桜の花びらが舞い散るなかを犬と共に帰路につく。
「いったい仕事とはなんだろうか」と考えはじめていた。仕事するために旅にでたはずが、旅に出たことによって「仕事とはなにか」を見失いかけていた。少なくとも、出社イコール仕事ではないし、PCを開くイコール仕事でもないだろう。PC作業は全く捗らなかったけれど、その一方で「今日ここでなにか大切なことをした」という感触だけは残っていた。
今というこの時間を犬と共に生き、歩いている。そのあたりまえの事実を改めて発見したような気がする。桜は巡りめぐる季節の目印であり、過ぎゆくときの節目でもある。共に生きる時間は有限であるということの前では、桜の花が咲き散ることは喜びよりむしろ切なさを語りかけてくるようにも思える。「こうして犬と一緒に歩くということ以上に大切な仕事が果たしてあるのだろうか」という考えが、軽く酔った頭のなかをぐるぐると駆け回っていた。
協力:Tadashi Takahashi(ライズレンタルキャンピングカー)
参考情報:霞城公園(山形市ホームページ)
https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/shisetsu/kurashi/1008161/1003675.html