【山形市】春の味、山の恵み。山菜「コシアブラ」をもとめて
地域の情報
山形の春は山菜とともにある。こんなふうに表現したくなるのは、寒さがゆるみ桜の季節になると、野山ではフキノトウ、コゴミ、ワラビ、タラノメといったように、山菜たちのリレーが一斉に始まるからです。
なかでも私の好物は「コシアブラ」。地域によっては流通量が少なく、なかなかお目にかかれないこともあります。今回は、このコシアブラについての食体験記です。
おいしいものは待ってくれない。
迎えに行くことで、出会える味がある
山形の人は「おいしいもの」に敏感だと思う。とくにそう感じるのは、旬のものに対する瞬発力。雪が解けて桜もすっかり散ってしまうと、フキノトウ、コゴミ、ワラビ、タラノメ、コシアブラといったように、さまざまな種類の山菜がいたるところで顔を出し始める。このころの緑は若く淡い。生命力溢れるピカピカの新芽に出会うと、なんだかうれしくなる。山形の実家に住んでいたころ、家族が「そろそろだな」「今年は暖かいから早そうだ」なんて話をしていたり、知人や近所の人がビニール袋に詰めて持ってきてくれたりしていたので、春の山菜の時季を肌で感じることができた。しかしながら自然の近くに住んでいないと、山菜の情報はネットの力に頼らざるを得ない。「山菜 時期 山形」などと雑なキーワードを入れて検索して得た情報と地元の人から聞いた話とでは、あきらかに何かが違う。
都市部のスーパーでも陳列された野菜やくだもの、魚なんかを眺めながら、ざっくりとした「四季」を感じることはできるが、自然が近くにある地域のそれにはかなわない。季節には、カレンダーや言葉では表現できないほどに、何層もの繊細なグラデーションがある。旬の食材を身近な場所で手に入れることができ、新鮮な状態で食べられるのが贅沢なことだと感じるようになったのは、だいぶ大人になってからのことだ。
そもそも私はなぜ、こんなにコシアブラに惹かれているのだろう。初めて食べたのは、おそらく小学生のころだったのではないだろうか。親戚が持ってきてくれたものを母が天ぷらにしてくれて、そのおいしさに衝撃が走ったのを覚えている。ずっしりとして味の主張が強いタラノメなどの山菜に比べ、コシアブラは軽やか。ほろ苦さのなかにこっくりとしたうまみがあり、青々とした風味も感じられる。当時はそこまで山菜が好きというわけではなかったので、「やたら旨い葉っぱみたいな食べもの」みたいな感じでインプットしていたと思う。ただ、また食べたいと思っても近くでは売っていないし、採りに行こうにも一人で行くことはできなかったので、おすそ分けのタイミングをひたすら待つしかなかった。コシアブラは山菜のなかでも流通量が少なく、県内のスーパーで見かける機会もそこまで多くはない。あったとしても、けっこうな値段が付いていることがほとんどなので、買うにはちょっとハードルが高すぎる。私の場合、コシアブラとの最初の出会いがスーパーではなく、知っている人からもらったというシチュエーションも大きい気がしている。
親戚や知人からの「コシアブラの恵み」が毎年あるかというと、そうではなかった。それから何年か過ぎ、山形を離れて東京で暮らすようになり、コシアブラという存在自体を忘れそうになっていたとき、実家から「コシアブラをもらったけど送るか?」と連絡があった。その瞬間、あの忘れられないおいしさと鮮明な味の記憶が蘇った。2日後、我が家に何年ぶりかのコシアブラが届いた。湿らせたキッチンペーパーで包んだ状態のものが美しくパック詰めされ、根元の「はかま」は丁寧に取り除かれていた。
さて、どうやって食べよう。これだけあるので、パスタや天ぷら、お浸しに和えもの、フルコースで味わえそうだとシミュレーションする。まずはやはり、天ぷらだ。衣は軽めにカラッと揚げて塩でいただくと、コシアブラの味を存分に楽しめる。天ぷら以外の食べ方で好きなのは「コシアブラごはん」。「コシアブラのだし浸し」を作って味わったあとに、翌日はその残りを使ってごはんやおむすびにする。炊き立てのごはんに、コシアブラのだし浸しを細かく刻んだものと、少々のごま油を混ぜて白ごまを散らせば、香りを味わうごはんの出来上がり。だし浸しのハイブリッドレシピでもある。
その翌年、父が知り合いの人から情報を入手してくれて、ついに私はコシアブラ採りに出かけた。といっても険しい山に登るわけではなく、その場所は実家から車で30分もかからないところにあった。地元の人しか知らない秘密の山菜スポットである。ここ数年、コシアブラ採りは山形での春の恒例行事となりつつあるが、そのタイミングがなかなか難しい。たとえば昨年は5月の連休中に行ったところ、だいぶ葉がひらいている状態だった。そのため今年は4月下旬に試みるも、芽が小さく採るにはぎりぎりというサイズ。同じ場所でもその年の気温や気候により、育ち具合が変わるということを目の当たりにすると、さすが自然のものだなあということを実感する。
藪の中に入るので、服装はアウトドア仕様が望ましい。帽子と軍手、足元の長靴は必須。首には手ぬぐいやタオルを巻く。あとは採った山菜を入れるためのビニール袋があれば問題ない。初めて山に入る人は、ある程度の知識がある人と一緒だと安心だ。タラノメはトゲがあるのでわかりやすいが、コシアブラはウルシと似ているので注意が必要。コシアブラの木は白っぽいのが特徴で、先端に付いている芽を採っていく。葉がひらいた状態のものや茎の部分の色を目印にしても見つけやすいが、葉がひらく前の新芽を味わうのがベストらしい。そのおいしいタイミングを見極めるのもまた、山菜採りの醍醐味のような気がする。目を凝らして藪の中を見ていくと、ここにもあそこにも、コシアブラらしきものがある。コツをつかんでしまえば簡単に採れるようになる。背の高い木の場合、一人が木をしならせた状態にしてもう一人が採るといったチームプレーも役立つ。これから伸びそうな小さい枝は、翌年に向けて残しておく。日差しが強くなる前のさわやかな朝、無心になって山菜を採るのはすごく気持ちが良かった。
今年の春にまたひとつ、コシアブラの新たな味に出会うことができた。仕事で山形市内を訪れた際に教えてもらった、七日町にある〈割烹 高峰〉さんの「コシアブラ蕎麦」。新芽だけを使っているとあって、アクがなくとても食べやすい。ミョウガとの組み合わせも素晴らしく、春と初夏が融合した一品だった。
食べものに旬があるというのは、素晴らしいことだと感じる。味が良くなるだけでなく、栄養価も高くなるなんて、こんなにおいしい話はない。そのときだけの味を楽しむべく、せっせと作っては食べ、あるいは出かけては食べる。自らが迎えにいくことで、出会える味がある。おいしい状態というのは、コントロールすることができない。だからこそ、差し出された恵みはありがたくいただく。季節はまた巡る。来年の春が、今から待ち遠しい。
文:井上春香