山形移住者インタビュー/『鶏やあさぎ』浅黄俊司さん
インタビュー
今回、移住者インタビューに登場いただくのは、山形駅前のすずらん通りにある焼き鳥屋『鶏やあさぎ』のオーナー、浅黄俊司(あさぎしゅんじ)さんです。 学生時代、とにかく都会への憧れが強かった浅黄さんが、東京を離れUターンするきっかけや、山形市での開業に至った経緯、そしてお店に込める思いなどをじっくりお伺いしてきました。
出身は山形県河北町、電車が通っていない町です。幼い頃から、ずっと都会に行きたいと思っていました。山形市内の高校を選んだのも、都会に憧れがあったからです。当時のかっこいいものは東京にあって、APEなどストリートファッションブームも注目していましたが、お店に行きたくても東京は遠いですよね。
高校ではボクシングに没頭していました。団体競技と違って、苦しいのもがんばるのも自分自身で、それが結果に直結することが自分には合っていました。そのうち「ボクシングの推薦で東京の大学に行ける」という話を先輩から聞いて、そこからめちゃくちゃ努力して、結果、東京への進学を果たすことができました。
憧れの東京生活は楽しかったけど、体育推薦でしたのでそれほど遊べないまま大学を卒業しました。それで、もっと自分のやりたいことを見定めたくて、フリーターをしながらバンドをやったり、飲食をやったり、洋服屋をやったり、スケボーをやったり、酒を飲んだり。とにかく休む暇なく全力で遊びながら、色々なことに挑戦しました。
そんな中で漠然と「自分の店を持ちたい」という夢が見えてきて、それなら飲食店かアパレル業界だろうと考え、アパレル業界で就職しました。やがて店長にまでなりましたが、ある時ふと、雇われ店長としての洋服屋はできるけれど、経営までやるのは難しい、と気づきました。それで方向転換したのが25歳の時。銀座の焼き鳥屋の求人を見つけて、飲食の世界に入りました。そのお店は、盛り合わせを提供しない、一本一本丁寧に焼いて提供するスタイルのお店でした。串打ちから炭入れ、焼き方まで、すべての技術を六年半かけて学びました。いつかこんなお店をやりたい、こういうお店で独立したい、とようやく道が定まりました。
自分の引き出しを増やすため、あえて真逆の大衆焼き鳥屋でも修行し、東京での開業の準備を始めました。ところが、物件探しはとても難航しました。東京の不動産屋さんは個人開業の人に対して冷たく、まともに紹介すらしてもらえず、山形へ帰ることにしました。かっこいいUターンエピソードもなく、都会に負けたという気持ちで結構凹んで帰ってきたのです。
山形に戻ってからは、飲食店でサラリーマンとして働きましたが、同級生や後輩たちが自分の店を構えている姿を見るうちに「また店をやりたい」という思いが強くなり、もう一度挑戦することを決めました。地元の仲間たちからの助けもあり、開業準備はスムーズに進みました。
両親が近くにいたからこそ、新しい挑戦にも集中できたのだと思います。東京だと頼る人もいないし、親がいてくれたことはUターンした最大のメリットだったかもしれません。
すずらん通りに『鶏やあさぎ』をオープン。36歳になってようやく自分の店を持つことが叶いました。「個人店はどれだけお客様を大切にできるかが重要なんだ」と、教えてくれたのもかつて修行していた銀座のお店でした。女将さんが接客し、大将が焼き場に立つという家族経営のお店で、焼き鳥を食べに来るのはもちろん、女将さんに会うことを目的とするお客さんも沢山いました。鶏肉を食べられない人までいたほどです。だからこそ、焼き鳥を食べに来るもいいし、店主の自分に会いに来るのもいい。そんな常連さんたちで溢れる店にしていきたいですね。
事業のやり方には多店舗展開などいろいろあるけれど、自分はこのひとつの箱で充分です。大きくなりたいとか、有名になりたいとかは、あまりないです。自分の手の届く範囲でできることを精一杯やる。ここに来てくださるお客様を一人一人大切にし、死ぬまで長くこの仕事を続けていきたい。ここに来てくれたお客さんが幸せになって帰ってくれたら、それが本望です。