山形県天童市・移住者インタビュー/東海林和哉さん「果樹農家が考える、持続可能性とこれからのまちづくり」
インタビュー
果樹農園を営む東海林和哉さんは、2019年、東京都から山形県天童市にUターンしました。それは、18歳までを過ごした天童市を離れてから18年後のことでした。自分のキャリアや暮らしについて前向きに考え、故郷に戻るという選択を決心したのだそうです。天童市へ戻り4年経った現在、仕事のことや生活のこと、さらにはこれからのことについて、お話をうかがいました。
現在3年目。スポーツ業界から農業へ
〈東海林果樹園〉の3代目である東海林和哉さん。Uターン後は2代目であるお父様の農園をそのまま継ぐのではなく、2021年に〈DEWA Valley Farm〉を設立し、自らの果樹農園を営むという方法を選び、さくらんぼやぶどう、りんごなどの樹種のほか、現在はラ・フランスやアーモンドの栽培にも挑戦しています。取材で訪れたのは7月。雨上がりの農園はしっとりと濡れた緑が美しく、さわやかな風が吹いていました。それも束の間。時間が経つにつれ、蒸せるような暑さが押し寄せてきます。
「朝は5時から畑で作業し、7時に朝食のため一旦帰宅し、8時半〜お昼ぐらいまで再び畑へ。夏場はこの暑さなので、小刻みに休憩を挟みながら暗くなるまで作業している感じです。最近まではさくらんぼの収穫と出荷とぶどうの作業が重なっていたので、とにかくいっぱいいっぱいでしたね」
高校時代はラグビー部だった東海林さんは、スポーツ関係の仕事に就きたいという夢を叶えるべく、宮城県の大学に入学。そのまま大学院へと進み、2007年に上京します。
「東京では日本オリンピック委員会のスタッフとしてナショナルトレーニングセンターに勤務しました。2008年の北京オリンピックから2010年のバンクーバーオリンピックまでの期間です。ジュニアエリートの育成やトップ指導者養成プログラムの運営、セカンドキャリアプログラムの作成などが仕事でした。その後はスポーツ庁の外郭団体へ移り、研究員やプログラムマネージャーとして9年ほど働きました。そのころから次のキャリアについて考えるようになっていました」
新たなキャリアとして選んだ農業の道
Uターンを機に、再び故郷と向き合う
転機となったのは2015年のこと。今後の人生を考えるうえでのさまざまなきっかけが訪れました。
「祖父の他界、父の病気、東京での仕事……。自分の人生や新たなキャリアを考えようというタイミングを迎えて、その先のことを想像したとき、Uターンすることについて真剣に考えました。自分のことだけでなく、故郷の家族のことを含め、一体どういう選択をするのがベストなのだろうか、と。その決断にじっくりと時間をかけました」
家業とはいえ、スポーツの世界から農業の世界へ、そして東京から天童へという転職をして「本当にやっていけるのか?」と不安もあったという東海林さん。2015年から4年間は、月に何回か東京から天童にきて実家の果樹園の手伝いをし、東京にいるときは農業関係のイベントに参加して情報収集していました。また、地元の友人や同級生に相談もするなど、実際にUターンするまでにはさまざまな角度から「本当にできるか?」を検証していたそうです。
「そうしてようやく天童に戻ることを決意したんです。Uターン後1年間は県の機関で農業研修を受け、研修後の2021年4月に新規就農しました。自分なりの農業のスタイルを作ってみたいという僕なりの想いがあって、『東海林果樹園』とは別に『DEWA Valley Farm』という名前で起業することにしました。もちろんいずれは両親と一緒に農業をやる時が来るのかもしれませんが、今はそれぞれのスタイルを尊重した方がいいような気がしていて。
新たに屋号を付けた理由はもう一つあって、それは同級生にも何人か農家の友人がいること。今後は地元のコミュニティの中で一緒に販売したり、地域のくだものをブランド化したりといった取り組みができるといいなあと考えています」
果樹と人。育てるということの共通点
東海林さんの果樹園は、奥羽山脈と出羽三森に挟まれており、立谷川によって形成された扇状地帯にあります。寒暖差を生み出す盆地と水はけの良い扇状地であることから、果樹栽培に最適なエリアでもある天童市。とはいえ、自然相手に行わなければならないのが農業の難しいところ。
「果樹って収穫できるまでに10年ぐらいかかるんですよ。野菜は年に数回チャレンジできる場合もありますけど、果樹の場合は年に一度きり。今年の反省点を挽回できるのは来年になってしまうし、毎年違う気候や条件のもとで一定の質を保つことも難しい。父親は『毎年1年生だな』ってよくいいます。毎年新たな課題が出てきますしね。でもそれが面白いし、だから続けていられるのかもしれません」
現状に満足するのではなく、常に上を目指しながら目標を高く設定すること。スポーツで培われた精神は、農業にも色濃く反映されていました。また、畑違いではあっても根底にある部分は変わらない、と東海林さんはいいます。
「果樹を作ることは、アスリートの育成と通じる部分があります。例えば良いタイミングで肥料を与えることは、栄養指導しながら行うカラダづくりをサポートしていくことにも近いというか。本当に似ているなあと感じます」
農業に取り組むうえで大切にしているのは、環境的にも栽培的にも持続可能であるということ。例えば、現在の農業の課題のひとつでもある、高齢化による担い手不足の問題。それが一因となり、耕作放棄地も年々増加しています。
もうひとつの大きな課題は地球温暖化。気候変動や自然災害など、私たちの生活のなかでも肌で感じる機会が多くなってきました。カーボンニュートラルの推進は、気温の上昇を食い止めるうえでも急務です。東海林さんの畑では、剪定枝を無駄に焼却処分してCO2を排出するのではなく、薪にしたりチップ化して土に還したりすることで、できるだけ削減するように努めています。ゼロカーボンシティ宣言をしている天童市の農家として貢献をしたい、という想いがあるのです。
今後は担い手不足の解消とCO2削減のため、天童市の補助金を活用してロボット草刈機を導入し、CO2排出量削減に取り組んでいきたいとも話します。
街のポテンシャルの高さが移住の決め手。
挑戦したい人を受け入れる土壌があること
東京から天童にUターン後、仕事はもちろん暮らしの面でもさまざまな環境と心境の変化がありました。通勤時の満員電車から解放され、マンションから一軒家住まいになったことによりご近所付き合いが復活。果物をお裾分けすれば、そのお返しにビールをいただくので、収穫時期はほとんどビールを買う必要がなくなるほどになったそう。また、ランニングを習慣とする東海林さんの運動環境も、ずいぶん大きく変わったそうです。
「ランニングコースとしては、自然の中でずっと気持ちよく安定して走れるのが良いですね。東京だと信号の度に止まらなきゃいけないし交通量も多いから、ペースが乱されるのが当たり前ですけど、ここには信号がないので、ずっと走りっぱなしです。景観もいいし空気もきれいだし、疲労も全然違ってくるんですよ」
食、温泉、地域文化、都市部からのアクセス。あらゆる面で程よく充実しているところが天童の魅力。リオ五輪の卓球台を〈天童木工〉が手がけたことや、「山形政宗」などの銘柄で知られる〈水戸部酒造〉がこんなにも身近にあったことなど、地元を離れて客観的に見たときに、あらためてポテンシャルが高い街であるということを再確認したと話す東海林さん。一度離れて戻ってきた立場から見えてきたことを、最後にこのように語ってくれました。
「ポテンシャルが高いということは、なんでもチャレンジできる土地柄でもあるということです。従来のやり方にとらわれすぎず新しいやり方を模索していくことで、自分の生きる道を切り拓いていけるんじゃないですかね。僕は都会と田舎、みたいに区別するのがあんまり好きじゃなくて。もっと柔軟な考え方ができるといいのになと思うんですよね。
生活様式も働き方も多様な時代なので、常に一箇所に留まっている必要はないとも感じるんです。実際に自分も何年かの間、東京と山形を行き来していたことがあるので、半分東京、半分山形、みたいなスタイルがあってもいいんじゃないかと。アクセスも良いので拠点を構えるという選択肢もアリだと思います。
農業に限らず、天童の魅力を発見してもらいたいという気持ちが強いので、そういう意味できっかけになりたいっていうのはありますね。0を1にすれば、だれかが1を2に、3に…みたいに広げていってくれるはずだから。それが今後の自分のテーマであり、自分の暮らす街がそうなっていったら面白いなと思っています」
DATA
DEWA Valley Farm/東海林果樹園
https://tokairin-fruits036.stores.jp/
写真:渡辺然(STROBELIGHT)
文:井上春香