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鎌倉文学館4代目館長に聞く、鎌倉文学散歩―鎌倉文士をめぐる旅―≪前編≫数々の作家が鎌倉に集まった理由

インタビュー

2024.07.24
鎌倉文学館4代目館長に聞く、鎌倉文学散歩―鎌倉文士をめぐる旅―≪前編≫数々の作家が鎌倉に集まった理由
鎌倉文学館|2027年まで閉館中

皆さんは「鎌倉文士」をご存じでしょうか? 歴史、カフェ、海、さまざまな分野からひも解くことのできる鎌倉ですが、「文学」も大きなキーワードと言えます。その背景には私たちの学んできた国語の教科書に載るようないわゆる文豪たちがそろって鎌倉で過ごしてきたという歴史がありました。芥川龍之介に川端康成……そんな鎌倉の地で過ごしてきた作家たちを「鎌倉文士」と呼びます。その数なんと300名以上。数々の文豪はいったい鎌倉の何に惹かれ、その舞台をどう描いてきたのでしょうか。


今回は鎌倉文学館4代目館長を務めた富岡幸一郎先生に、鎌倉にゆかりのある文豪「鎌倉文士」が過ごした鎌倉のまちを案内いただきます。

鎌倉文学館4代目館長に聞く、鎌倉文学散歩―鎌倉文士をめぐる旅―≪前編≫数々の作家が鎌倉に集まった理由
鎌倉文学館4代目館長を務めた富岡幸一郎先生

富岡幸一郎
昭和32(1957)東京生まれ。54年、中央大学在学中に「群像」新人文学賞評論優秀作を受賞し、文芸評論を書き始める。平成2年より鎌倉市雪ノ下に在住。関東学院女子短期大学助教授を経て関東学院大学国際文化学部教授。神奈川文学振興会理事。244月、鎌倉文学館館長に就任。著書に『内村鑑三』(中公文庫)、『川端康成―魔界の文学』(岩波書店)、『天皇論―江藤淳と三島由紀夫』(文藝春秋)等がある。

鎌倉文学館HP
http://kamakurabungaku.com/index.html

関東学院大学 公式Webサイト|富岡幸一郎 国際文化学部比較文化学科教授
https://univ.kanto-gakuin.ac.jp/index.php/ja/profile/1547-2016-06-23-12-09-44.html
http://kokusai.kanto-gakuin.ac.jp/teacher/comparative_culture/tomioka-koichiro/



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数々の作家が鎌倉に集まった理由

鎌倉文学館4代目館長に聞く、鎌倉文学散歩―鎌倉文士をめぐる旅―≪前編≫数々の作家が鎌倉に集まった理由
文學界 2024年1月号

富岡先生:鎌倉文士の軸には「文学界」という雑誌の存在があります。この雑誌は小林秀雄、川端康成、林房雄、深田久弥。この4人が、昭和8年に創刊しました。その時彼らはプロの文筆家だったんですが、この「文学界」は同人雑誌だったんです。
というのも、昭和8年は戦争の真っただ中。様々な弾圧がある中で、もっと自由に自分たちで雑誌をやろう!それならばみんな近くにいたほうがいい!となって鎌倉に集まってきたわけです。その後、だんだんと鎌倉に作家が増えていって、鎌倉市民と文士とが集まって「鎌倉カーニバル」というお祭りが行われたり、文士たちが自分たちの本を持ってきて、貸し本にした「鎌倉文庫」が誕生したりしました。これが昭和20年戦争真っ只中の5月のこと。作家は原稿が書けないし、住人も本が読めない。鎌倉もいつ空襲されるかという厳しい状況でしたが、川端康成も当時の鎌倉を「日本で一番元気のあるまちだ」と残しています。こういった動きから文学をはじめ、漫画家や歌人、詩人と画家が集まっていくまちになっていったんです。


文士の士って、武士の士なんですよね。自分の命よりも、名誉を重んじるというような、独立自尊の精神が鎌倉文士を結成したわけです。大きな出版社では国の検閲で自由に出版ができない時代。だからこそ、鎌倉に来た作家たち、文学者たちは、自分たちが、自分たちの力で作品を書ける場所を作りだしていったんです。「文学界」は数年でなくなってしまうんですが、後に今の「文芸春秋」に引き継がれ、今もなお発刊されています。

鎌倉カーニバルや鎌倉文庫も今は形としては残っていませんが、当時のまちのたたずまいは変わっていないし、そんな背景を知ってまちを歩いてもらえたら嬉しいですね。

芥川龍之介は鎌倉で第一歩を踏み出した

鎌倉文学館4代目館長に聞く、鎌倉文学散歩―鎌倉文士をめぐる旅―≪前編≫数々の作家が鎌倉に集まった理由
芥川龍之介『羅生門・鼻』 (新潮文庫)

富岡先生:芥川龍之介は東京の生まれですが、東京帝国大学の英文科を出た後に、横須賀の海軍の学校に、英語を教えに行ってました。そのために一時期、鎌倉に住んでいたんです。これが大正5年(1916年)のこと。最初は今はない由比ガ浜の海浜ホテルの近くに下宿していたんですが、その後、元八幡(現在の八幡宮より由比ヶ浜に近い場所)の借家に住まいを移し、新婚生活を送っていました。そこで鎌倉に住む文学者と親交を深めていったようです。そしてここに住んでいる頃にあの『羅生門』という最初の本を出版しました。人気作家になった後は、東京の田端の家に戻るんですが。 この元八幡の借家での生活は、彼にとってもすごく印象的だったようです。

実は亡くなる前の年に「鎌倉を引き上げたのは一生の誤りであった」と語ったと言われています。芥川龍之介にとっては、最初の新進作家として過ごした鎌倉での時間はいいものだったのかもしれません。
最後は昭和2年に「ぼんやりした不安」という言葉を残して、自ら命を絶ってしまうんですが、もし鎌倉にいれば、違った晩年があったのかもしれないですね。


芥川龍之介というとちょっと湘南と縁がないようですが、晩年に『蜃気楼』という鵠沼を舞台にした作品も残しています。それほど芥川龍之介にとって湘南は印象深い場所だったのだと思います。

鎌倉文学館4代目館長に聞く、鎌倉文学散歩―鎌倉文士をめぐる旅―≪前編≫数々の作家が鎌倉に集まった理由
提供:鶴岡八幡宮 教務課


由比若宮(元八幡)
住所:鎌倉市材木座1-7
電話番号:0467-22-0315(鶴岡八幡宮)
行き方
1.JR
鎌倉駅東口6番バス乗り場から九品寺方面行きで「元八幡」下車徒歩1
2.JR
鎌倉駅東口から徒歩15


66
歳で鎌倉の地へ移った吉屋信子

鎌倉文学館4代目館長に聞く、鎌倉文学散歩―鎌倉文士をめぐる旅―≪前編≫数々の作家が鎌倉に集まった理由
吉屋信子『花物語 上下』(河出文庫)

富岡先生:次にご紹介するのは昭和37年に鎌倉に居を構えた吉屋信子です。吉屋信子は少女小説から歴史小説まで幅広く書いた作家のひとりです。明治29年に生まれ、昭和48年まで活躍しました。東京の喧騒を逃れて、66歳の時に、この鎌倉に新居を構えたそうです。閑静な住宅まちの平屋建。近代数寄屋建築の第一人者である吉田五十八氏が設計した家に住んでいました。今は吉屋信子記念館となっています。

鎌倉文学館4代目館長に聞く、鎌倉文学散歩―鎌倉文士をめぐる旅―≪前編≫数々の作家が鎌倉に集まった理由
吉屋信子記念館

吉屋信子記念館
場所:鎌倉市長谷1-3-6
TEL
0467-61-3912(生涯学習課)

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文学と鎌倉。ひも解いてみれば、それは作品の舞台という関係だけでなく、文士たちの人生の舞台ともいえる「鎌倉」まちの活気がみえてきました。古き良き場所で新しい何かをしていく。文学の香りと共に、この熱量が今もなおこのまちに息づいているのかもしれません(後編へ続きます)。