【能登】忘れたくない、忘れてはいけない能登半島地震の記録(1)| 発災時から
連載
金沢R不動産の新入スタッフ・舟場です。令和6年能登半島地震で被災し、珠洲市から金沢市へ避難してきました。地震発生から半年が経ち、少しでも当時の、そして能登の「リアル」を綴っておきたいと思い、realloacalで少しずつ記事を残していくことにしました。
文章にできずにいた、地震の記憶
2024年1月1日、石川県珠洲市に住んでいた私は、能登半島地震で被災しました。
幸い家族はみな無事で、私たちの自宅は倒壊こそ免れましたが、隣に住んでいた義父母の自宅は全壊し、夫の実家の家業である珪藻土の製品をつくる工場もほぼ全壊しました。
地震のことはなかなか文章にできずにいました。状況があまりに衝撃的すぎて、心がシャットダウンしてしまっていたのだと思います。今でも地震前の写真を見るのが辛いです。半年経ってやっと気持ちの整理ができてきたこともあり、記録に残さなければという想いが芽生えてきました。
2024年1月1日のこと
私はそのとき現在3歳の息子と共に珠洲市のとなり、能登町にある実家に向かう途中の山道にいました。数分前に震度5強の地震が来て、いつもの地震だ、ちょっと強かったな、程度に簡単に受け止めていたところに強い揺れが。車内がぐわんぐわん揺れて、まるで巨人に車を上下左右に揺さぶられているかのようで本当に怖かったです。人生で経験したことのない揺れ方に、これはただ事ではないと感じ、すぐさま珠洲市にいる夫に連絡しました。「無事ではあるけど自宅からみえる工場等の建物がほとんど崩れ落ちた。津波が来るかもしれないのでその場にいた義母と二人で山の方に避難する」との連絡を受け、私はそのまま実家に向かいました。後から分かったことですが、私と子供がその時に通ってきた山道は土砂崩れの被害を受けていて、あと数秒通るのが遅かったら車ごと土砂に飲み込まれていたと思います。
実家に着くころにはあたりも暗くなってきていました。能登町の山間部にある実家は幸いあまり被害もなく、すぐ電気が通りテレビも見ることができました。元々豊富な井戸水を飲料用に使用していたため、水にも困らずに済みました。夫から「津波の心配はとりあえずなくなったから、地域の集会所に避難する」との連絡を受けたあと、電話が繋がらなくなりました。災害のことを放送するテレビを見つめ続けていましたが、その日はほとんど被害の様子は分からず、大きな余震に怯えながら、ほとんど寝ることができませんでした。
これが夢であったなら、どんなにいいか
次の日になり、能登町から珠洲市までの大動脈となっている道路はなんとか通れるらしいとの情報を受けて、子供を実家に預けてすぐに珠洲市の自宅へ向かいました。道は所々崩れ、大きな段差や陥没ができていて、土砂崩れで塞がっているところなど、酷い状況でした。タイヤをパンクさせないように慎重に運転し、自宅につきましたが、いつも見慣れていた風景は変わり果ててしまっていました。潰れた建物と土砂崩れ、ほとんど建っている家がない地域もありました。これは悪夢だ、夢であったらどんなにいいか。このとき感じた絶望感は一生忘れないと思います。未だに受け入れきれていない部分もあります。
無我夢中で金沢までやってきて
それからは能登町の実家に夫と子供と共に避難をしていました。3日置きほどに珠洲市の自宅へ行き、家の片づけをしていました。2週間ほど経つと電気が通りましたが、余震も続いており、ライフラインの復旧も長期戦になることが予想されたので、私たち家族は当面の拠点を金沢市に移すことに決めました。当時勤めていた珠洲市内の不動産業を営む会社を辞め、物件探しや保育園探しをするために金沢の友人の家やホテルを転々としました。幸い、知り合いの方が所有している一軒家をみなし仮設住宅として貸していただけることになり、近くの保育園に入所できることも分かったので、2月中旬には金沢市に引っ越しをしました。
このあたりは前に進まないと落ち込んで動けなくなってしまいそうだったので、無我夢中でした。引っ越して数日経つとやっと生活や気持ちに落ち着きがでてきて、体の力が抜けていくのを感じました。改めて、安全な家に住み、料理、洗濯、掃除をして暮らしを営むという普段は当たり前の生活が、生きていくうえでとても大切だということに気が付きました。
金沢市は結婚を機に珠洲市に行くまで8年間住んだ土地でもあるので、知り合いも多く、安心して住むことができています。子供も楽しそうに保育園に通っていて、ほっとしています。ただ、自分達の生活の基盤を整えるために奔走していて、ほとんど珠洲市や能登のために力になることができずにいることが、とても心苦しかったです。
間接的にでも能登の支援に携わりたい
そんななか、金沢R不動産を運営する株式会社ENNに入社することができました。代表の小津さんが震災前から珠洲市での活動「現代集落」や、「能登復興建築人会議」の発足に携わっていたことは知っていたので、金沢にいながら能登の復興支援に関わることができるのではないかという想いもありました。ありがたいことに、小津さんの尽力で復興支援関係の不動産業務の依頼もいくつかきており、間接的にでも能登の支援に携わることができるのが嬉しいです。
未だに珠洲市では上下水道が復旧していない家が数多くあります。上水が通っても配管が漏水していたり、浄化槽や下水道が使用できない家も多いようです。帰ったときも、風景にほとんど変化がないように感じます。潰れた家の多くはそのままです。道は少しずつ通りやすくなってはいますが、まだマンホールが飛び出たままだったり、亀裂があるので注意が必要です。
やっぱり「能登」が、私のホーム
最近は月1、2回程度しか能登に帰れていませんが、いつ帰っても家族や知り合いのみんなが温かく迎えてくれて、ホッとします。人との触れ合いを通して、ここが自分のホームなのだなと心から感じます。
今回の地震で自然の怖さを改めて肌身に感じましたが、地震の後も、能登は本当に美しいところだな、とも感じます。自然そのものの美しさは損なわれず、いままで長い歴史のなかで人々が住み、作り上げてきた里山里海の風景が酷く被害を受けました。そのことにどうしようもない怖さを感じますが、これから能登がどうなっていってほしいかのヒントも、そこにあるような気がしています。
大地震を受けたいま、これからの能登はどうなっていくのか、今の所まだ不安は拭えません。私に何が出来るのか、どうしたいのか、少しずつでも考えて、実行していきたいと思っています。
(2024年6月)