山形納豆物語 第十話
山形の人は、納豆が好きだ。
愛知へ嫁にきて20年、山形を離れて初めて気づいたことだった。
まずはスーパーの納豆コーナーをみてほしい。その広さ、中小メーカーがひしめく多様なラインナップ。みんなお気に入りの納豆で、納豆もちを食べ、ひっぱりうどんをすすっているに違いない。そんな山形の、納豆にまつわる思い出や家族のことをつづっていきたい。
第十回目は、「父とポテトチップスと納豆餅」について。
私の父は、昭和18年生まれの酒飲みだ。普段はあまり話さないけれど、酒を飲むと上機嫌になり、やたら饒舌になったり、プロレス技をかけてきたりと愉快な父になった。朝起きると一転、黙って新聞を読んでいる姿を見て、小学生の私は「いっつも酒を飲んでいればいいのに」と思ったものだ。子どもの思考って恐ろしい。
父は、ご飯も洗濯も掃除も、子どもの面倒も、家のことは全て母任せで、自分の身の回りのことだって母に頼りきっていた。今の時代からするとありえないことだが、仕事こそが男の甲斐性であり、それ以外は全て母の役割といった人だった。
母頼みの我が家において、理由は定かでないが、母が泊りがけで家を空けたことがあった。しかも、ちょうどその時に小学校で山登りがあり、おやつの準備がいる。大問題勃発である。焦って父に話すと、すぐに出かけて買ってきてくれたのが、でっかいポテトチップス一袋だった。
私は、一瞬固まった。おやつとは、ガムとかラムネとか飴とか、細々したものを色々持って行って、ちまちま友達と交換するのが醍醐味なのだ。父は、そんな子どもの楽しみなどもちろん知る由もなく、子どものおやつもよくわからなく、知っているお菓子を適当に買った結果と推測される。「大袋一つ…」と思いながらも、母がいないという異常事態から何となく気持ちを飲みこみ、かさばる袋を黙ってリュックに詰めこんだ。
山登りの行き先は蔵王で、きつい道のりだった覚えがある。ぜぃはぁ息を切らし、 もうすぐ着くと自分に言い聞かせながら、一歩一歩登った。やっと頂上に着き、心も体も解放されてリュックを開けた瞬間、私は仰天した。あのポテトチップスが、気圧の変化でぱんっぱんに膨れ上がり、まん丸になっていたのである。
「うわーーーーー!」
初めて見るその姿に、私だけでなく、周りにいた同級生も興奮した。すぐさま、まん丸ポテトチップスはボールにされ、トスのラリーが始まった。自分のポテトチップスがみんなの輪の中心にある。何だか誇らしかった上に、なんとポテトチップスはおやつの交換で大人気だった。次々とおやつを差し出し、ポテトチップスをつまんでいく友達の姿を見て、私はにやつきながら「お父さんもたまにいいことするじゃん」と思った。
そんな父と小学生の私と妹で出かけた淡い記憶がある。父が「なんか食って帰るが」と言って、おしゃれなログハウスのお店に連れて行ってくれた。酒とホルモンの煮込みばかり食べているイメージの父とはちょっと不釣り合いのお店だった。
食べたのは、納豆餅。そこは餅屋だった。家でしか食べたことのない納豆餅が、お店のお椀に収まっているのを、不思議な気持ちで見つめた。母がいないお出かけ、ログハウスの雰囲気も相まって、大人になっても、時々幻のようにぼんやり思い出される。
今年で82歳になる父にとって、納豆餅は、私達がラーメンや牛丼を食べるのと同じ感覚にある選択肢なんだろうな。「3人で行ったの覚えてる?」などと話しながら聞いてみると、
「くだぐなったから、くったんだべな(食べたくなったから、食べたんだろうね)」
と懐かしむこともなく当たり前の事を言い、私のノスタルジーを一蹴した。