霧島にはすべてがある
東 花行さん/フォトグラファー
「こんなに鹿児島を好きになると思わなかったよ。どんなに大変でも東京には戻れないな」
東 花行さんは、2014年4月15日に家族で鹿児島県霧島市に越してきた。移住して1年以上が過ぎ、すっかり日焼けして南国の生活に馴染んでいる。
ファッション業界でフォトグラファー、アートディレクターとして多忙な毎日を過ごしていた東さん。
「ある時から生まれ育った東京に漠然としたつまらなさを感じるようになりました。人が増えて街がすごいスピードで変わっていく。ディープでコアな東京に終わりを感じていました」
同時に自分自身も結婚や子どもの誕生などで変化が訪れた。子どもに食べさせるものを考える中で、自分たち自身が食べるもののことも考えるようになった。地球のこと、地球と自分たちのこと。今まで考えもしなかったことが気になり始めた。
そんな時、霧島連山と周辺の魅力を発信するウェブサイトを立ち上げるプロジェクトに誘われた。神話の世界観や大自然への敬意に満ちた内容を聞くうちに、そこで紡ぎだされるストーリーに東京で感じていた疑問への答えがあるように思え、メンバーに加わった。
定期的に霧島に通う生活が始まった。1、2、3回と霧島を訪れるうちに、今までの自分の当たり前が崩れていく衝撃を受ける。自分はあまりにも偏っていた、知らないことが多かったと。
「霧島には、人間と地球が共存する上で必要なものがすべてあると思った」
いつか霧島に住みたいと強く思うようになった。撮影した写真を奥さんに見せて、「ここで暮らしたい」と語る日々が続く。
とはいえ奥さんと子ども2人、同居しているお母さんの5人暮らしの東一家。移住は簡単じゃない。そんな折、家の更新が迫ってきた。第2子が生まれて部屋が手狭になったこともあり、引っ越しを考える。
「ちょうどタイミングだったんですね。家内が『もう行っちゃう!?』って言い始めて。勢いで移住を決めてしまいました。これも流れだと思います」
決断してからの行動は早かった。10日で家を決め、1カ月後には霧島で生活していた。
「実はじっくり調べたりしていないです。移住って事前に情報があってもなくても、飛び込まないといけないことには変わりがないし、絶対にここだ、という確信がありました」
そうして移り住んだ霧島の土地。東京の案件も抱えながら、新しい環境でゼロからの挑戦が始まる。東京では利害が一致すればすぐ仕事になったが、こちらでは人間関係がしっかりしていないと仕事にならない。まずは信用してもらうところから。
「最初に『扉はいつでも開いているから、入っていいよ』と接してくれるところが鹿児島人のいいところ。行ってみて扉が閉じていると感じることもあるけど、ちゃんと理由がある。そこをクリアすると、すっと扉を開けてくれるんですよね。いつもとても勉強になります」
「東京から来たカメラマンに頼めるような仕事はない」と言われてしまうことも多かった。安い、ダサい仕事はお願いできないと。仕事を選ぶつもりはなく、与えられたチャンスに対して、何でも一生懸命取り組む心づもりでいたので歯がゆかった。
しかし、努力を重ね、信頼を積み重ねていく日々。少しずつ顔も覚えてもらい、仕事も増えてきた。
霧島に来てからというもの、東京にいたときには得られなかった新しい感情が湧き上がってくるのを感じるという。初めて解体された鹿を見たことや、田植祭の稲の神事を通して、命が生かされていることを実感した。
霧島の原始的な大自然は、感謝の気持ちを自分に気づかせてくれた。
「東京のように仕事はないけれど、ここには『本物だ!』と感じられるものがある。ここの空の下で暮らすためならなんでもやる。いつも行きあたりバッタリですが、自分にとって一番大事なことが何かわ かっていたら後は何とかなる気がしています」
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