建築家 井上貴詞さん Interview 2017
建築設計の道の始まり
小さい頃から作ることが好きで、美術や工作が得意でした。美術系大学への進学も考えましたが「作る」なら工学部に行こうと東北大工学部を志望し、テクノロジカルな工学部の中で唯一柔らかい印象があった「人間環境系(土木/建築)」に進みました。そこで専門的に建築を学びはじめ建築家という存在を知りその道へと進むことになるのですが、そのとき思い至ったのは母方の祖父のことでした。
祖父は川西町で工務店を営む大工で、幼い頃たまに行く祖父の家は祖父が自ら建てた自宅兼作業場となっていて、行くたびに階段の位置が変わっていたり玄関が大きくなっていたり色々と変化があって面白かったのです。その記憶が蘇り、何かわからず目にしたあれは製図板だったんだなーとか思い当たり、知らず知らず建築の道に進もうとしている自分のルーツを再発見したのでした。
その頃の大学の建築学科では、かたちを競い、造形の良いものや面白いものばかりが評価される風潮があり、それに対する違和感をもち始めていた私は、建築デザインではなく、建築計画の研究室に進みました。2001年にオープンした伊東豊雄さん設計の〈せんだいメディアテーク(smt)〉の建築計画を担当したことで注目された研究室です。ちょうどsmtができたばかりで研究室としても活発に動いていた時期で、有名な建築家と一緒に様々なプロジェクトを全国で手がけていました。
建築計画との出会い
建物を建てるとき、その建物には何が必要なのか。どの大きさが適正なのか。町にとってどういう存在なのか。建てた後にはどう運営していくのか。設計以前のそうしたプランニングや完成後のマネジメントこそが実は一番重要で、そこが不確かだと無駄にデカい箱モノになったり、いらない機能ばかりの建物になってしまいます。
設計前後のそうしたプランニングを総合的に追求するのが建築計画であり、この研究室で当時助教授だったのが現在は建築計画者として全国に知られる小野田泰明先生です。先生のような建築計画者という職能はそれまでにない全く新しいものでした。
決まりきった用途の部屋をただ並べれば施設が出来上がるといった考えをゼロから見直し、そこで想定される人の行為まで立ち戻り必要とされるスペースを複合的に生み出したり、建物が完成してからも空間の使い方の様々な可能性をその利用者と一緒になって考えたりとか、建築を新しい概念で組み立て直すことをこの研究室で学びました。
それがとても新鮮で、これからの時代に必要なものに感じられました。研究室は福祉施設から文化施設、集合住宅の計画まで様々な建築物を扱い、建築家とタッグを組み小学校を作ったり、市民と一緒にワークショップをしながら文化施設を作ったりし、その建築物が学会賞を受賞するなどしていました。そういった環境の中で研究する日々は私にとってとても刺激的なものでした。
演劇のまちの文脈を読み解く
2002年、演劇のまち仙台の卸町にできた「せんだい演劇工房10-BOX」も研究室で計画した施設で、地元の劇団の人たちに10-BOXがいかに創造的に使われるかを調査するのが私の卒業論文のテーマとなりました。
同時にまた、倉庫街である卸町の特性を見極め、その特性を使って演劇のまちに変えていく「まちのリノベーション」のような構想が卒業設計となりました。これが大学の青葉奨励賞や、リフォーム・リニューアル・コンバージョン設計アイディアコンテストの佳作を受賞しました。
大学卒業後は大学院に進み、そこでも芝居や舞台芸術への興味から、演劇のまち下北沢でのリサーチをおこないました。このまちの賑わいは大きな劇場の存在によるものではなく、まちの拠点となっている様々なサイズの中・小劇場が集積していることによるものでした。
小さいからこそまちに馴染み、芝居を演じる側や観る側の選択肢が広がり、周辺には大道具とか小道具に必要な店が並び、観劇後にお客さんが流れていく飲食店もあり…と、建物単体ではなく、いろんなものがあるという多様性がまちを活性化させていました。このまちのにぎわいの仕組みや仕掛けを解き明かしまとめたものが修士論文となりました。
その歴史や地理や地政学的なものやいろんな文脈をこうして読み解き構築することは、複雑なものを整理して目に見えるよう可視化し、その場所の価値が何なのか私なりの最適解を導き出すことなのです。
東北、山形に眠る可能性に気づいて
ほとんどの仲間が大学院を出て仙台を離れ東京へ向かうなか、東北それも山形での就職を選んだのは私ひとりでした。そうした決断ができたのは、大学院生時代にインターンとして飛び込み、のちに就職することになった山形の本間利雄設計事務所で得た経験によるものでした。
その頃はwebで得られる情報も少なく、地方の設計事務所のふだんの仕事の様子など外部からは全くわかりませんでした。だから実際に見に行くしかない。で、実際に覗いて見たらそこでは大小様々な仕事が常に回っていて「いろんなチャンスがあるな」と思いました。「自分が学んできたことがここで何かしらモノになるものがあるんじゃないか」と。地方だから面白い仕事がないなんてことはない。フィールドはちゃんとある、と。
また、世界的に有名な建築家たちが特集された2002年の『Casa BRUTUS』もひとつのヒントでした。当時まだ若手の建築家であった三分一博志さんと五十嵐淳さんも紹介されていて、三分一さんは広島、五十嵐さんは北海道を拠点としてそれぞれ仕事されていました。そこにあった言葉は「東京にはこだわらない」。ああ、こういう可能性もあるんだって強く惹かれ、広島と北海道でこれだけできるのなら東北でも何かしら面白いことができるんじゃないかという予感めいたものが閃きました。その感触は未だに私のなかに残っています。
人と繋がり、まちづくりに活きるものを
本間利雄設計事務所での在籍期間のうち、設計から完成まで携わった仕事のひとつに〈水の町屋 七日町御殿堰〉があります。ここは羽州街道にあり、山形市内を流れる歴史的水路のひとつ〈御殿堰〉が流れる場所。ずっと昔から山形にあったような建物を、という建主さんの要望でした。
そこで、ふたつの蔵を再生し、暗渠になっていた水路を見えるようにして山形の風景として戻してあげて、それに合わせて木造耐火の建物を作り直しました。建築物としてはアクロバティックなことはしておらず、むしろ町屋をモチーフとした控えめな感じにまとめています。歴史を踏まえながら水の街ならではの商業空間を再生させ、またこの地域らしいコミュニティースペースを創出させたとの評価をいただき、東北建築賞やグッドデザイン賞など多数の賞を受賞しました。
実はこのプロジェクトの何年か前から、ただ机の前に座って設計をするだけではなくて、まちへ出て歴史を学ぶことであるとか、まちで人と繋がりをつくることであるとか、まちづくりの活動をすることであるとかの必要性を感じて実践してきたという経緯があったので、そうした人との繋がりや活動がこの仕事に活かされ、建築物をただどーんと作るのではなくまちづくりと絡めて結実できたことを嬉しく思いました。
人に寄り添う建築で多様性のあるまちへ
2014年の独立以降、かたちを求めるよりも、素材や文脈を読み替えて空間を柔らかく解きほぐしていきたいという思いがますます強くなりました。
例えば美術修復士のアトリエ兼住居である〈大河原の家〉では、小さな森のような庭に囲まれた古い家の建て替えを行いましたが、コンクリートの基礎をそのまま大きな土間のアトリエとして生活空間と一体化させ、外の庭と家の内とが繋がるように設計しました。これは、言わば、かつてどの民家にも作業空間として重要な役割を担っていた土間空間を現代的に置き換えたものです。
当たり前ですが、その建主さんなりの暮らしがあり、それに合う住まいのかたちがあります。それはひとつとして同じではありません。
私は、建築家としての自分の個性を出すよりも、それぞれの建主さんがもつ個性や暮らしに寄り添った建築設計をめざしています。様々な文脈を読み解き、建築家という立場から建主さんのお手伝いをすることによって、新しいものは生まれるはずです。その積み重ねによって多様なものが地域の中に生まれるだろう、と思います。建築に力がないとまでは言いませんが、でも、やはり「人」だろう、と思います。その人たちが最大限に思う存分活動できるような場づくりをお手伝いしたいのです。
山形は古くからの技術、様々な素材、長く伝わる手仕事の文化があり、目立たなくとも腕の立つ、几帳面できちんとした仕事をしてくれる職人さんの多い土地です。そういう環境のなかで建築がやれるのは恵まれたことかもしれません。
大量の古いストックの宝庫であり、リノベーションの観点から見ても面白い場所、面白い空間がまだまだ眠っている場所です。それは発掘しがいのある宝ものが埋まった場所として、私の目に映っています。
井上貴詞
1980年山形生まれ。一級建築士。東北大学大学院工学研究科博士課程前期修了。2005年本間利雄設計事務所+地域環境計画研究室入社。2014年井上貴詞建築設計事務所設立。住宅、集合住宅、店舗、オフィス、ギャラリー、医療福祉施設、文化施設などあらゆる建築物やインテリアの企画・設計・監理を行うほか、都市計画やまちづくりに関するコンサルティング・調査・研究なども行う。そのほか、LCS共同主宰。山形大学、東北芸術工科大学にて非常勤講師。2011年山形エクセレントデザイン2011奨励賞(ENDAI/WORKSHOP)、2013年グッドデザイン賞(YAMAMORI PROJECT)、2015年グッドデザイン賞(森の家)、2016年グッドデザイン賞(大河原の家、GLIDE GARAGE)など受賞多数。