最先端は、山のなか/地域エネルギー研究者・三浦秀一さん
エネルギー研究者であり、東北芸術工科大学建築・環境デザイン学科教授であり、やまがた自然エネルギーネットワーク代表でもある三浦秀一さんほど、山形という土地に根づき地域に結びついてしまった移住者もなかなかいない。
研究室を飛びだして、まちなかに、コミュニティのなかに、畑のなかに、山のなかにどんどん足を踏み入れてしまうし。自宅まで建てちゃったし、しかもそれはエコハウスだから、夏も冬も厳しいはずの山形の日々がすごく快適だし。じぶんの暮らしを自然エネルギー活用の実験場にしているようにも見えるし、地元の人よりずっとずっと山形の楽しみ方を知っているし。
そんな三浦さんの、移住当時から現在までに至る物語を、ざざーっと語っていただくインタビューです。
移住して四半世紀
「農」を感じる山形暮らし
東京の大学の研究畑で約10年過ごした後、東北芸工大という新しい大学で仕事があるというので「じゃあ行ってみるか」と軽いノリで山形にやって来たのが1990年代前半。バブル終わりかけの、山形新幹線ができて山形駅が新しくなったばかりの時代です。ここには10年くらいいるのかな、いずれは生まれ故郷の関西に帰りたいな、なんて言っているうちに25年経ち、家まで建てました。
山形暮らしが10年を過ぎても、福岡出身の妻は冬のたびに「なんなのここは? こんなに雪が降って」なんて言ってたから、私から「ずっと山形に暮らそう」と口にすることなく。でもあるとき「ここでずっとマンション暮らし続けるの? せっかく山形にいるんだから家を建てたら?」って妻の方から言ってきた。関西でも東京でもマンション暮らしで、一戸建てに憧れもなかった私が、山形でマイホームをつくることになりました。
その頃、休耕田に菜の花を植えて種の油を搾りディーゼルエンジンのガソリンにする、というプロジェクトに参加した影響からか、自分の体が田畑に馴染んでしまったみたいで、家を建てるなら農園のそばがいいと思いました。隣が畑なら見晴らしも良くて気持ちがいいですし。希望に合う土地を探して家を建てるまで3年もかかりましたけど。
そんな場所に家を建てたおかげで、隣の畑をやってる70歳くらいのご夫婦がリヤカーに野菜を積んで来てくれます。町内をくるくると売りに回っているんです。目の前の畑で育てた、採れたばかりの野菜を、作った本人がわざわざ届けにきてくれる。そんな野菜を食べられるなんて、マジですか?って感じですよね。山形の魅力をこういうところに感じますし、こうした都市内農地というのは素晴らしく貴重だと感じます。
日本でも東京でもない
山形のエネルギー問題とは
東京の大学院では「建築のエネルギー」特に「地下空間のエネルギー利用」が研究テーマでした。当時の東京はバブルで人口が集中し開発ラッシュ。土地が足りないから地下空間を作ろうとみんな真剣に考えていた。でも、山形にはそんな都会の文脈はないし、土地はいっぱいある。さて山形でなにを研究するか、模索しました。
その頃、ようやく地球レベルの環境問題が叫ばれ始め、日本でも京都議定書が話題になり、CO2削減が世界の共通認識になりました。そんななかでも山形には、車の排ガスがまちの空気を汚してるといった問題認識はほとんどなかった。
でも、このまちの暮らしを眺めると本当にクルマ社会で、便利だけどCO2は排出するし、ヒューマンスケール的にも良くない部分があると気づいた。それは例えば仕事帰りに「一杯呑んでく?」ってことがまるでないこと。これはクルマ社会の寂しさだな、人の楽しみを奪っているなって思って。エネルギーという観点から山形の都市問題を考えはじめました。
日本のCO2削減の話でも、東京の人が使用するエネルギーのライフスタイルと山形の人のライフスタイルは違うので、国の目標とは別に地域単位の目標が必要だし、地域毎に取り組み方が違っていいはず。
実際、東京と山形を比較すると、都市全体としてのエネルギー使用量は確かに東京の方が圧倒的に多い。けど、ひとり当たりのエネルギー使用量は山形の方がずっと多いんです。東京の人は満員電車で移動するからエネルギー効率はすごくいいのに対して、山形はたったひとりで1台の車を走らせるんだから当然ですよね。山形には山形特有のエネルギー問題がある。それを見つけて伝えることがまずは大切だと考えました。
グローバルな地球環境問題と
ローカルな里山との繋がり
山形に暮らすと「公民館で話してくれ」という依頼も多く、地球温暖化対策といったテーマでコミュニティのなかで話をする機会があります。でも「はいはい、わかったわかった」って感じで、まあ盛りあがらない。「良い話だし環境がヤバいのもわかったけど、俺たち大したことできなし」という感じなんですね。風車とか太陽光の話にも無反応。
なのに、木のエネルギーの話になると、なぜかみんなの食いつきが違った。それは、山形には山を持っている人たちがいるからだったんです。山を所有してるけど管理できていない、という悩みをもつ人たちに「実は山の木はエネルギーとして使える」っていう話をすると、目の色が変わったんですね。
そもそも山の木々って人間が植えてたもの。みんなそれを燃料にして暮らしていたんです。例えばこの芸工大のある場所も元々は棚田で、この村の人は山の木々をソリで運び出していたという話を地元のおじいさんが教えてくれました。まちのインフラが整備される中で消えてしまったけど、ほんの少し前の時代まではその木を燃やしてエネルギーにしてみんな暮らしてた。
山の見え方が変わりました。山というのはただの自然だと誰もが思ってるけど、そうじゃない。里山というのは、人の手が植えた自然エネルギーであり、そのために存在していたものだったんだ、と。
エネルギーってすべて同じじゃなくて、東北のエネルギー、山形のエネルギーっていうのがあるってことですよね。小さな国が無数にあるヨーロッパのように、日本だってひとつじゃなくて、いろんな国があるような感じ。東北や山形は、東京とは違うエネルギーや文化、ライフスタイルで良いんです。
私はエネルギーとこのまちの歴史や暮らしはどうなってきたかというルーツを探るようになり、再生エネルギーとか地球環境とかという言葉よりももっとリアリティのある、「里山」とか「木」とか「人の暮らしとエネルギー」といったような、山の奥にあるテーマへと入り込んでいきました。
ディープな東北・山形のローカルな世界と、グローバルな地球温暖化という一見関係なさそうなものが「繋がった」って感じました。
3.11以降に生まれた
自然エネルギー活用の実践の場
山形って、公害も環境問題もあんまりなくて、本来は一般の人がエネルギー問題を考えなくちゃいけない地域じゃないんです。
だけど3.11があって、原発事故があって、エネルギーは身近な問題だとみんな気づいて、自然エネルギーのことが気になりだした。
でも、原発と自然エネルギーを置き換えるなんてとてもそんなリアリティはない。ないけどどこまでできるんだろう。山形なら都会よりは自然が多いから、多少は可能性があるんじゃないか。ヨーロッパの先進事例の情報もどんどん伝わってきたし、そういうことができている国があるなら、やんなきゃいけないんじゃないかって、みんな感じ始めた。
だから、もっと知りたい。知りたいことをみんなで学んで、自分たちの地元で何ができるか。それをみんなで考えていこう、という自然発生的な流れで勉強会をやるところから「やまがた自然エネルギーネットワーク」(=やまエネ)は生まれました。市民の人や企業の人も含めて、いろんな人と一緒に話をしながら進んでいこうという感じで。
勉強していくうちに、地域にある自然エネルギーの可能性を発見して「じゃあこれからどうやっていくか」という段階を迎えた。勉強するだけでじゃなくて実際にやらなきゃってことで、自分でやる人は自分で、自分だけじゃやれない人は仲間と一緒に、いろんなプロジェクトがはじまりました。2016年には市民共同発電所をつくり、その後その2号、3号とつくり続けています。
地方には問題が沢山ありますけど、「問題」ってまさに研究テーマですよね。だから地方は研究テーマだらけ。で、実践できる人と一緒に問題解決をめざしてみる。課題を指摘するだけじゃ「先生はそう言ってるけどどうしたらいいんだ?」ってなるから、僕自身も一緒に提案を考え、実践できる人に実践してもらいながら、またそのフィードバックを受けて、さらにどうしたら良いかってことをまた考える。
面白いです。研究って、東京一極集中的に、地方にいる人も東京にいる人と同じような研究をやりたがることが多いんですけど、そうじゃない。特にこういう地域絡みの研究ってのは、地方にいるからこそできる面白さがいっぱいあるので、それをこそ楽しみたいですよね。
三浦秀一 Miura Shuichi
1963年兵庫県生まれ。早稲田大学大学院博士課程修了。博士(工学)。東北芸術工科大学建築・環境デザイン学科教授。やまがた自然エネルギーネットワーク代表。
建築と地域を主眼とした自然エネルギーの活用や省エネ、地球温暖化対策の技術評価や政策に関する研究を行う。 東北が原発から自然エネルギーに転換するグリーンエネルギーフロンティアになることをめざし、実践活動に取り組む。