映画の街に暮らす(5) / ともにあるために
地域の連載
2011年3.11東日本大震災の約3ヶ月後の5月5日、映写機材一式を車に積んで宮城県石巻市の渡波地区や湊地区の小学校を訪れた。自衛隊の瓦礫撤去作業で辛うじて通れるようになった道路。辿り着いてみると、小学校はそれぞれ周辺の被災者の方々が数百人単位で身を寄せる避難所になっていた。
「もうそろそろ、映画、映しに来てもイイよ」と声をかけてくれた友人は、当時仙台に職場があり、震災直後から現場に入って被災者の方々と交わり、ライフラインの復旧作業にも関わりながら人的ネットワークを構築するために駆け回っていた。以前、山間部の寺の境内での野外上映や様々な自主上映会を一緒に企画していたこともあって、被災現場での物的な復旧の過程の先に必要になってくる住民の心のケアのために「映画が何かできるかも知れない」、そんな時期を現場感覚で教えてくれたのだ。
不測の事態の中で身を寄せ合って暮らしている子供から高齢者まで、幅広い年代の人たちが、いっときでも、置かれている現実以外の時間に接してもらえたらとYIDFF(山形国際ドキュメンタリー映画祭)スタッフや映画の仲間と共に石巻市立湊小学校避難所を訪れ上映会を2度開くことができた。特に、渥美清扮する寅さんが阪神淡路大震災の被災地で炊出しボランティアとして登場する『男はつらいよ 寅次郎紅の花』(1995年製作、渥美清の遺作となる)は湊小学校避難所自治会からのリクエストだったこともあり、夜の体育館に集まった多くの被災者の皆さんからとても喜んでいただいた。帰り際に映写機の側に来て泣き笑いしながら握手を求めてくる人たちが何人もいて、「映画を一緒に見られる」ということがこんなに深々と喜ばしいことなのかと、改めて思い知らされた気がした。九州電力の応援でそこだけ唯一電気が通っていた小学校避難所。その周辺は未だ瓦礫の山で、校舎裏の寺の墓石の上には幾台もの車が横倒しに乗っかっているという異様な状況下での映画鑑賞会だった。
その年(2011)の10月の山形国際ドキュメンタリー映画祭では、3.11被災地の状況を記録した映画等を可能な限り集めて上映した。この湊小学校避難所での上映会の印象が忘れられず、最終的にこの特集プログラムのタイトルは「ともにある Cinema with Us」とした。映画は私たちの人生に寄り添って共に在ること、それが映画と人に往き交う喜びなのだという感覚。我らとともにある映画。
その後、被災地に赴き映画上映を通してエールを送る「シネマ・エール東北」の活動にも数年に渡り参加してゆくことになる。半ば埋もれかけていた日本の移動映写の伝統や技術が未曾有の震災という災禍を契機に息を吹き返した。行く先々で映画を映す場に人が集まり感動や会話も生まれる。人が生きてゆこうとする時、そこに映画が寄り添うことができるということを、数々の現場があらためて教えてくれた。
あれから9年後のいま、新型コロナウィルス感染が世界的な規模で拡大する中、人を集める映画館や劇場は休業や閉鎖を余儀なくされている。地域での上映会、移動映写も殆んどできない。場を作るはずの映画が、場を作れない。国際映画祭や地域の自主上映に関わり、映画と人との交流を作ることに専心して来た身にはまさかそんな状況が生まれるとは想像もできなかった。しかしこれは今確かに起きている事態なのだしこれは当然映画の世界に限ったことではない。自分たちは、いまこの事態を受け入れながら、それぞれの現場で出来ることを探して積み重ねてゆくしかないのだろう。それは3.11の時と同じでないとしてもあの時に学んだ感覚を思い起こし、改めて人と繋がるにはどうしたら良いのかということに思いを凝らすことだろうと思う。
こうしたタイミングで引き受けた仕事が、山形県唯一の離島 飛島の今を記録した映画『島にて』の山形県内先行上映の広報だった。
映画にとても引き込まれた。人と自然の結び目。海に囲まれた小さな島の暮らし。隔てられているからこそ流れている時間の心地よさ。ひとつの時代の終わりと新しい暮らしの模索、諦めと希望が混在する飛島の今を生きる人たちが見せる風のような佇まい。これは、いまだからこそ見て欲しい作品のように感じた。
全国の映画館が先の見えない休業を余儀なくされる中、映画の現場に関わる人達たち自らがミニシアター存続支援を目的にいち早く複数の支援サイトを立ち上げ、全国から予想を超える多額のサポート資金が集まっている。これは民間が創り出した公的なムーヴメントだ。
そして、この『島にて』も公開に向けての全く新しい方法が生み出され、劇場の休館に関わりなくインターネット上の「仮設の映画館」で5月8日(金曜)から有料公開されることが決まった(観客はサイト上で公開劇場を選んで作品を観る)。クレジット決済された鑑賞料金は、公開を予定していた映画館と配給会社に分配され製作側にも還元されてゆく。生で映画を楽しむ現場作りに人生の半分を費やしてきた自分が、いま、映画の経済を止めない新しい取組みとしてインターネットでの映画興行を支えたいと動いている。再び生でつながるためのシールド(盾)としてのインターネット。自分でも、とても不思議な気がするが、実は何の矛盾も感じない。
5月の連休前に、9年前、自分を石巻に誘ってくれた友人から連絡があった。子供たちを新型コロナウィルスの飛沫感染から防ぐためのshield(盾のように守ってくれるもの)を作って、必要な人や施設に配りたいから、手伝って欲しいとのこと。
「『つながるための盾』を作るには、木工作業からです。」
「了解。いま、やれることをやりましょう!」