旅のはなしvol.2 / 遠藤暁子さん「タイの姉」
地域の連載
山形で独創して営む人たちに尋ねました。忘れられない旅のこと。歩んできた道のりのこと。そして、今について。ご本人たちの語りで届けるシリーズ「旅のはなし」です。
ぱっと思い浮かぶ人や旅の出来事?もう、ありすぎですよ!stay homeの今、もはや妄想で生きてますから(笑)私の旅って、ほとんど会いたい人に会いに行く旅。景色や目的があって行ったりもしますけど、遠方に行く場合はだいたい会いたい人のところですね。私、余裕ないんで、陸でマイルを貯めて、それでなんとか空を飛んで遠方に行くというね。去年もタイに格安航空券でなんとか行けた感じです。
今すぐにでも行きたいところは、自分のふるさとである旧朝日村の田麦俣。今だとカタクリや水芭蕉、春の山野草がきれいで、ゼンマイ、コゴミ、ワラビなどの山菜、山の恵みに溢れているところ。茅葺屋根の多層民家が今も残っています。空き家となった生家はもう解体していて無いのですが。
高校まで田麦俣で暮らしていて、大学は山形大学に通ったんですけど、大学を1年間休学してタイに行ったんですね。今だとインターンシップみたいなのものがよくあるけど、そんなものはない時代でしたから、休学してタイの児童養護施設「子どもの村学園」に名ばかり日本人ボランティアでお世話になりました。
山村で育った私が旅に目覚めた?のは、かつて朝日村の教育委員会が、地元の高校生たちを「ジュニア民間大使」として子どもの村学園に定期的に派遣してくれていたからなんですよ。本当にありがたい事業だったと思います。それで私も高校2年生の春休みに、1週間くらいタイに行かせてもらって。当時たしか5万円が自費で、残りの滞在費を教育委員会が負担してくれていたので、5万円分はバイトでお金を貯めて。朝日村の人たちは、この取り組みを鶴岡市と合併するまで何十年と続けてくれていました。逆にタイからのホームステイの受け入れもするんですけど、言葉なんてほぼ通じないんですよ?でもほんとにびっくりするほどのあったかさで一人ひとりを迎え入れて。きっと何かが通じ合うんだと思います。
そうして合併後に途絶えてしまったその派遣事業が、実は今年やっと再開へ向けて動き出し、任意の団体をつくって高校生と中学生の8人をこの3月にちょうど派遣しようとしていたところだったんです。教育委員会の人たちや若い頃に派遣してもらったOGOBたちがずっと準備を続けていたんですけど、このコロナ禍で行けなくなってしまって。
2019年には学園卒業生と先生たち数人を旧朝日村に招待して、地元の中学生たちとの交流会も行われました。その最終日の交流会には私も呼んでもらって行ったんですね。そしたら、約20年前学園で一緒に過ごしていた5、6歳だった女の子が、英語も堪能な素敵な女性になって来てたんです。
当時の懐かしい写真を一緒に見ながら「大きくなったねー!お互い年とったねー!」なんて喜び合って。ホームステイ先となった家のご年配の方達もタイ語はもちろん英語も片言であっても、最後は泣きながら抱き合って別れるんですよ。こんなことを続けてるところはなかなかないだろうなって思います。こういう様子を子どもたちにずっと見せていきたくて再開に協力していたので、今年のことは心底残念で悔しいですね。
旅に行くと、日常の自分を客観視できたり、リセットして考えられるところがあるんじゃないかと思いますね。いつもとは違う刺激をもらって考えることができたり。日常を離れることのよさみたいなものを、私も高校生で味わったんでしょうね。
大学生になって再びタイの子どもの村学園へ行ったときには一人で行きました。個人でボランティア活動をしている日本人の方達がタイの各地にいたので、そのネットワークを頼りながら。だからタイ語なんてぜんぜん話せなくて。でも若いから行けちゃったんでしょうね(笑)
向こうに着いてからタイ語の学校に3ヶ月間だけ通って、紹介してもらったアパートで友だちができて。その友だちは、子どもの村学園出身のタイ人で、大きくなって学園の運営母体のNGOで働いていたんです。行った当初から彼女となんとか会話することで言葉も身に着けさせてもらいました。私にとってはもはやタイの姉で、本当に姉だと思っています。
15年前の新婚旅行でタイに行った時にお互いのパートナーも紹介し合っていたけど、その後は私も時間的になかなか余裕がなくて会いに行けなくて。姉も子どもがしばらくできなかったんですけど2人目も生まれてもう大きくなっていて、今はもうLINEですぐ話せる時代だから子ども達ともLINEごしに会っていたんだけど、やっぱり会いに行くね!って一昨年に一人でぱっと行ってきました。
去年は、姉の子どもと甥っ子が同じ年頃なので仲良くなれるんじゃないかなあと甥っ子を誘って一緒に行って。もうほんとに楽しかったですね。今までは自分の目線しかなかったけれど、子どもの目線で旅を過ごすのがすごく新鮮だった。甥っ子は見るものすべてに反応して、なんでもおもしろがってくれるし。あと、子どもたちってすぐ仲良くなれるでしょう。びっくりするほどに。サッカーとかゲームとか、遊び始めたら言葉はいらないんですよね。生活の違いに対して疑問を持ったり気づいたりするようすも、見ていておもしろかったなあ。
トラブルですか?ささいなトラブルや失敗は、旅の恥はかき捨てと、甥っ子と一緒に楽しんでいたので、特にはなかったかなあ。でも、タイ人の良くも悪くもゆったりした時間感覚には、甥っ子が叫んでましたね(笑) 学園のスタッフをしている友人が、研修でバンコク事務所に行くから終わったらピックアップするよと言ってくれて、バンコクから2時間かかる学園まではその車に乗せてもらうことにしていたんです。そうしたら、待ち合わせた時間より3時間くらいバンコクのNGO事務所で待つことになって(笑) 短い滞在期間なので、甥っ子は「時間がないのになんでこんなに待ってなきゃいけないの!もう行きたいんだよ!」と。「マイペンライ、マイペンライ」って向こうの言葉で「気にしない、気にしない」って意味なんですけど、そう言いながらなだめてました(笑)
ただ、それからようやく移動することになったとき、バンコクで保護された、甥っ子と同じくらいの年の男の子が初めて学園へ移動するのと一緒になったんですね。大人のなかにその男の子がぽつんと一人乗っていて、あとから乗り込んだ甥っ子がその子の隣に座ることになった。言葉も通じないんだけれども、2時間くらいの道中で二人はなんとなくやりとりをして仲良くなって。どういう境遇でこれから学園で過ごすことになったのかなんてわからないんだけれども、なんとなく察して彼に寄り添おうとする甥っ子の姿がうれしかったですね。
新しい生活環境に変わるまさにその瞬間に立ち会ったので、学園に向かう車中でその子は泣いたりもしていたんです。「行きたくない、僕は働きたいんだ」というようなことを泣きながらスタッフに訴えているのを見て、「なんで泣いているの?」と甥っ子が聞くので、私もわかる範囲でちょくちょく伝えていたら、自分とその子の境遇の違いをどう感じていたかはわからないけれども、言葉が通じない中「どうしたら元気にしてあげられるかなぁ」と言って悩む甥っ子の姿がうれしかった。到着後も彼のことをとても心配していて、翌朝、彼がみんなの輪のなかに入って元気に朝ごはんを食べているようすを見つけると、よかったねよかったねってうれしそうにしていて。そんな甥っ子の人を思いやるところとか、見知らぬ土地でも臆せず行動するようすは、見ていて驚きでした。
タイの姉とは、大学時代はネットなんて今みたいに普及してないから手紙でやりとりしたりしてましたけど、今はLINEだから早いですね。出会ってもう20年以上経ちますけど、最初は私なんか言葉もわからないでタイに来ているので、「なんだこの子、かわいそうだなあ」とも思ったんじゃないかな?(笑) 学園で育っているし、面倒見なくちゃって思ってくれたんだと思う。学園には結構日本人の寄付者、来訪者も多くて、姉も日本語を勉強したりしていたんですよね。だから少しでも日本語を話せる機会ができたのもうれしかったのかもしれない。
彼女とはね、気兼ねなく、あけすけに話せるというか。片言だからストレートなことしか言えないんですよね。会いたいものは会いたいとしか言えなくて。でも普段生活していると、いろいろな言葉で覆っちゃうじゃないですか。社会で生きていくために鎧を身にまとったり。自分の大事な核さえも隠そう隠そうとしちゃったり。でも私の場合、自分の原点がどこにあって、どんなつながりで今があるのか、自己の再評価みたいなものをいつも友人とのやりとりのなかでさせてもらっているように思うんですね。だから彼女ともぐっと近い関係になれたし、本当に家族みたいなんです。とにかく彼女たちには、いつも幸せでいてほしいなって思いますね。
<プロフィール>
遠藤暁子(えんどう・あきこ)
山形県鶴岡市(旧東田川郡朝日村)出身。山形市在住。社会福祉法人ほのぼの会わたしの会社施設長。併設ショップ桜舎(さくらや)・桜舎かふぇ・桜舎商店も運営。http://watashi-no-kaisha.net/ 障がいを持つ方たちのアートプロジェクトやドキュメンタリー映画の自主上映会など、地域のデザイナーや福祉関係者、地域の様々な方たちとの協働企画が大好き。現在7歳の女児に養育里親として育成されている…。