坂本大三郎の「山の書評」(1)
地域の連載
赤羽正春著『採集』(2001年、法政大学出版局)
人は生きていくためには何かを食べなければなりません。お寿司、カレー、ラーメン、ハンバーグ……、世の中は美味しい食べ物であふれています。しかし、災害や予期せぬ出来事によって、社会のインフラがそれまでの様に運用できなくなってしまうと、食べ物を得ることはおろか、お風呂に入ること、トイレの水を流すこと、暗い場所を明るくすること、情報を得ることといった、現代日本人が当然のようにあると考えてきた社会的恩恵にあずかることができなくなってしまいます。
そうした非日常下をどのように過ごすのか。例えば大地震が起きたときに、どうやって生き延びるのか、そのための技術や知識を身につけたいと、それが子供の頃から私の大きな関心となっていました。東京から山形の山間部に移住したのも、山で暮らす人たちが伝統的におこなってきた山菜採りや植物を利用したカゴ作りなどの、自らを取り囲む自然を活かした生活技術を学びたいという思いが含まれていました。
ちょうど、この原稿を書いている春は山菜採りのシーズンで、私は毎日のように山に入ります。山菜を採っていて思い浮かぶのが、これらの山菜がどれくらいの人数を養うことができるのだろうかという疑問でした。
東北のブナ林に息づく採集文化について書かれた赤羽正春『採集』には、「飢饉になったら山に入れ」という言葉を秋田や宮城の集落で記録したと記述があります。かつて里の食べるものが無くなったときには、山に入れば何かしらの食料を得られるという考えがあったのでしょう。
しかし山形県と新潟県の境に位置する、現在はダムの下に沈んでしまった集落、奥三面では「二九軒を超えると村が潰れる」という言い伝えがあったとも書かれています。奥三面の遺跡を調査した赤羽正春は縄文中期から晩期にかけて最大十五軒の住居の痕跡があったことから、稲作導入以前は、近隣の山々から採れる獣や山菜が十五軒分の人口を養うことができ、導入後には二九軒が最大になったのではないかと推測しました。
奥三面が米を多く食べるようになったのがいつの時期なのかはわかりませんが、東北や九州の山間部では昭和40~50年頃までは、あまり米を食べなかった地域があったという話を聞いたことがあります。『採集』の中でも山形県の小国町、福島県の奥只見、秋田県の打当などをあげて、「これらの地域ではクリだけで生き延びたという伝承を持つ集落がある。」とします。
私が暮らしている月山周辺の山々にもクリの木がよく生えており、それまでそれほど気にすることはありませんでしたが、この本を読んで以来、クリの木が計画的に植えられたものであることを感じるようになりました。たしかにクリは集落からそれほど遠くない山の中に生えていることが多く、収穫することを考えて植えられた意図を感じます。
クリは可食部100グラムに含まれるカロリーが156キロカロリーであり、成人の一日に必要なエネルギーが2000~2500程度であるので、それを踏まえれば自ずと、年間に必要なクリの量が計算されていきます。
本の中には「いいクリの木は五貫目(一八・七五キログラム)のクリを落とす」という秋田刺巻の言い伝えを収録しており、これを元に、五人家族に必要なクリの木は156本であるとしています。現在は少子化が進み、もっと少ない本数でも事足りそうです。
私は山の幸というものは無尽蔵にあり、多くの人を養えるものだと漠然と考えていましたが、それは無秩序に乱獲すれば尽きてしまう豊かさであるということをデータをみることで実感することができました。
『採集』のなかには、この他にも、狩猟に関することや、熊の生態に関する記述もあり、私が山形の山間部で得てきた体験知を知識的に裏付けすることができる内容であると感じました。自然とどのように関わり、生きていけば良いのかを考える上で、赤羽正春の『採集』から得ることができた豊かさは少なくありません。
坂本大三郎
千葉県出身、山形県西川町在住。古来より伝承されてきた生活の知恵や芸能の研究をライフワークとする山伏にして、イラスト・執筆・芸術表現など幅広く活動するアーティスト。主な著書に『山伏と僕』(リトルモア)、『山伏ノート』(技術評論社)、『山の神々』(A&F)がある。山形市七日町とんがりビル1Fにある雑貨とカフェの店「この山道を行きし人あり」のディレクションも担当。
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