シネマ通り、郁文堂書店との出会い / 町にまなび、町にさわる(1)
地域の連載
都市の風景を塗りかえるような取り組みをさまざまに展開している若き起業家・追沼翼さんによるアクティビティ・レポートです。
シネマ通り、郁文堂書店との出会い
すべてのはじまりは大学のゼミの活動でした。通称「シネマ通り」(正しい名前は「旭銀座通り」)に「とんがりビル」「BOTA coffee」とリノベーションによる再生が続く中、「空き物件のリノベーションを妄想せよ」という課題が与えられたのです。
そこで僕たちが対象としたのは「郁文堂書店」。とんがりビルの真隣にあるちょっと不思議な建物です。シャッターが閉まっているのにも関わらず、朝顔のグリーンカーテンが元気に咲いていました。その錆びたシャッターと朝顔にたまらなく惹かれ「ブックカフェにしたら渋い!」と妄想を膨らませました。一体、閉じられたシャッターの向こう側にはどんな空間が広がっているのか。冒険心を掻き立てられ、僕たちはヒアリングに行くことにしました。
お邪魔させていただいたそこには、床も見えないほど雑多な風景が広がっていました。山積みの本、片付けられなかった思い出の品たち。まるでここだけ時が止まっているようでした。
「二代目である主人が入院してからは、お店を閉めてしまったの。もう10年くらいになるのかな」とオーナーの原田伸子さんは話してくださいました。
シネマ通りは、かつて6つもの映画館があった山形の文化の拠点。朝から晩まで人が絶えず賑わっていたとのこと。ここで商売を営んでいた郁文堂書店は、斎藤茂吉や司馬遼太郎、井上ひさしなど名だたる文化人が訪れ、「郁文堂サロン」と呼ばれていたのだそうです。僕たちのような客をも招き入れてくれて伸子さんがお茶とお漬物を出してくれたのは、そのサロンの名残でした。かつてこの場所に文豪たちが集まり、お茶を飲みながら談笑していたのです。
とてつもなく文化性の高いこの空間を町に開くことで、大きく町が変化するのではないかと僕たちは希望を持ちました。短絡的に考えていたブックカフェへとリノベーションするという妄想は仕切り直しです。ここにある歴史を継承しつつ、直感を頼りに再生を目指し始めました。
郁文堂書店と山形ビエンナーレ2016
より多くの人に郁文堂書店を見てもらうにはどうしたらいいだろう。そんなことを考えていると、「実は山形ビエンナーレの会場として打診されていた」というではないですか。これはチャンスだ!と思い、企画書を片手にそのプログラムのディレクターであるナカムラクニオさんに会いに行きました。
「あの…僕たちが郁文堂を片付けます。なので、ビエンナーレ最終日にコラボしてもらえませんか…? 郁文堂書店を再生したいんです。よかったら企画書を見てください!」
企画書をはじめて見てもらう小っ恥ずかしさを感じつつ、パラパラと中身を確認するナカムラさんをジッと見ていました。するとナカムラさんは僕たちの突然のお願いにも関わらず「素晴らしい!やろう!やろう!」と二つ返事で引き受けてくれました。
そこからというもの、山形ビエンナーレ最終日に向けて、夏休み返上で片付けをする日々となりました。掃除する毎日の中で繰り返し聞こえてくるのは「いたますぃ(もったいない)」という伸子さんの声でした。僕たちからすれば、なんでもないような物も伸子さんにとっては大切なものかもしれない。そう思うと業者のように事務的に処分するわけにはいきませんでした。「これはいりますか?これはいりませんか?」と対話を重ね、少しずつ片付けを進めていきます。ときどきお茶で談笑したりもしながら。
そして、ようやく床が見えるくらいにまで片付いた頃、山形ビエンナーレ最終日を迎えました。ナカムラクニオさんによる移動書店「7次元」とともに、十数年ぶりとなる郁文堂書店のオープンです。果たしてお客さんは来てくれるのだろうかと不安でしたが、そんな心配も束の間。TwitterやFacebookでの必死の告知の甲斐もあって、100名以上のお客さんが店を訪ねてきてくれました。やっぱり、ここには人を惹きつける何かがあるんだ!、と僕たちは確信しました。
妙な高揚感のまま、その1日が終わろうとしているとき、伸子さんが言いました。 「協力してもらえるなら、また開けようかね~。店仕舞いを考えていたけれどまたお店を開けて、みんなに喜んでもらえて嬉しかったの」
それを聞いて僕たちも、こんなに嬉しい言葉はない、と思いました。毎日通い詰めたこともあり、僕たちと伸子さんのあいだに信頼関係が生まれていたのだと思います。
それから、次第に「あそこ何かが始まるらしいよ」と町のニュースとして広まり、郁文堂書店再生プロジェクトは次の段階へ突入することになりました。
つづく