「『安心』な保育って、なんだろう」阿部幸子さん 前編/わたしのスタイル5
さまざまな理由で働く親とその子どもたちを支える仕組みとして、戦後広まった保育所の設置運動。その保育所づくり運動は、働く女性たちを中心として全国的に1950年代から高まりを見せていくようになりました。当時はまだ自治体の公費をもとに運営する認可保育所の数は少なく、しかも産休明けから預けられる0歳児保育は現在のように一般的なものではありませんでした。そのような状況で、切実な思いを抱えた働く母親たちが協力し合い、個人宅で乳幼児を預かるような無認可の共同保育の取り組みが生まれていきます。
山形市にも2020年4月時点では、公立認可保育園は10施設、市からの委託を受けた社会福祉法人等が設置・運営する民間立認可保育園は34施設あります。さらに近年では、幼児教育を行う幼稚園と保育園の機能を併せ持つ認定こども園なども増設されています。今でこそ、0歳児から預けられる認可保育園も一般的なものとなっていますが、山形市内で初めて産休明けから預けられる0歳児の認可保育園「たんぽぽ保育園」が開設されたのは、1988年のことでした。
そのきっかけは、仙台での保育士経験をもち、当時2人目の子どもを出産したばかりだった阿部幸子さんの胸にあった、「子どもを預けて働くとき、母親が『安心できる』保育ってどんなものだろう?」という問い。子どもを預けたいけれど、保育園ならばどこでもいいわけじゃない。まだ女性が働くことが社会的に十分に保障されていなかった時代に、阿部さんは仲間や保護者、地域の人たちと共同保育所を立ち上げ、そこでの民主的な話し合いを通じて、子どもと大人、子ども同士、大人同士がともに学び合う「共育ち」の理念を築き上げていきました。その約40年にもおよぶ、山形で培われてきた保育探求の一つの歴史を振り返ります。
0歳児保育の受け皿として
民間が担った「ベビーホーム」
阿部幸子さんが山形市にやって来たのは1980年代初頭のこと。専門学校を卒業後に仙台で就職して保育士として働いてきた経験から、山形でも保育の現場で働きたい思いを抱いていました。しかし、当時の公立認可保育園の保育士受験資格には年齢が見合わず、また民間の認可保育園においても「ここで働きたい」と思える施設に出合うことができませんでした。そもそも民間の認可保育園はまだ数えるほどしかなく、無認可保育園のほうが多いという時代。さらには無認可のなかでも、個人宅の一角を改修して、近所の子どもの保育を行っている「ベビーホーム」と呼ばれる無認可保育所が、市内に溢れている状況でした。
「女性が働くうえで保育園はなくてはならない施設だけれども、子どもは本来、母親が自宅で見るべきもので、社会的には保育園は必要悪として存在している、当時はそんな印象を強く受けましたね。また、認可保育園のほうでも、公立民間を問わず、保育時間や受入れ年齢などにおいて、さまざまな決まりがたくさんありました」と阿部さんは言います。
またあるとき、認可保育園を見学させてもらうと、やっとハイハイをし始めたばかりの0歳児と、歩き回り駆けっこするような1、2歳児が、同じ乳児室で一緒に保育を受けていました。その光景を目の当たりにして、これでは保育園で0歳児の受入れなどできるはずがないなと実感したそうです。つまり、0歳児保育においては、行政の公的なサービスが市民の要望を満たすほど十分に行き届いていなかったがゆえに、厳しい財政に悩まされながらも働く女性たちを支える民間の受け皿として、ベビーホームが乱立している状況でした。
それでも阿部さんは、自分のやりたい保育をやってみたいという思いで、仲間や保護者、地域の人たちと共同保育所を立ち上げます。目指すはやはり乳児保育の実践と拡充。まだ専門学校でも乳児保育が必修ではなかったという時代に、仙台で勤めた保育園では、産休明けからの0歳児保育を自分たちでつくっていこうとする運動や学習会が行われていました。そして全国的にも民主的な研究者たちが中心となり、保育士たちが現場で乳児保育のいろはを掴んでいくプロセスは、理論化され、教育実践の一つとして論文で発表されるようになっていきました。
そのような、現場の保育士たちが交流しながら研究者たちと勉強を重ねて理論を構築していく「全国保育問題研究会」の活動は、1962年の第一回全国保育問題研究集会開催によってますます全国各地へと広がっている時期でもありました。阿部さんは、仙台での保育問題研究会活動を通じて、産休明けからの0歳児保育とともに、子守の枠を越えた子どもの発達のための保育について学び、実践を積んでいました。その経験から、山形で出会った保育関係者たちと、山形での保育を考える学習サークルを結成。仲間との議論をもとに、いずれ認可保育園になることを目標に、1981年8月に「たんぽぽ共同保育所」をスタートさせました。
親が育ち、子どもが育つ
それぞれの権利の保障を
たんぽぽ共同保育所を始めるにあたって、まず一番に話し合ったのは、やはり乳幼児保育のこと。「まだ言葉にならない思いをたくさん発信してくれる子どもたちの、言葉にならない声をどう聞き取るか。その子が何を願い、何をしたいと思っているのかを聞き取るということを、やっぱり保育のなかで一番大事にしていかなければいけないよね、と。最初は3人くらいしかいなかった若い保育士たちと、毎日熱心に話し合った記憶があります」と阿部さんは振り返ります。
そして現在、阿部さんは、たんぽぽ保育園園長等を経て、保育園3園を運営する社会福祉法人たんぽぽ会にて法人事務局を務めています。たんぽぽ会では、保育理念として、「子どもが健やかに発達する権利と、保護者が安心して働く権利の同時保障」を掲げており、今もなお、共同保育所での話し合いと実践によって積み上げられてきたものが、現場で受け継がれています。
「今でこそ、女性だけでなく男性も含めて働く家庭を支えるものとして、保育園が社会的に位置付けられるようになってきましたが、当時はまだまだ働く女性を支えなければという意識が私たちのなかでは強かったと思います。では働く女性を支えるときには、どんな支え方がベストなのかという話し合いを、ずいぶんとしたんですね。女性が働きながらも安心して我が子を育てていく、その『安心』の中身ってなんだろうねと。
当時はベビーホテルでの死亡事故なども全国的にニュースになっているときです。自分が仕事を続けるために預けられるところさえあれば『安心』になるかというと、絶対にそうではないよねと。母である自らは、職場で自己実現を目指したり、切磋琢磨したりして、人として育つ機会を得ていく。一方で我が子は、保育園のなかで友だちと仲良くしたり、時には喧嘩をしたり、冒険をしたりして、子どもの世界で人として豊かに育っていく時間を過ごしている。このどちらともが満たされている実感ができて初めて、女性たちは安心して仕事に打ち込めるんじゃないかと思うんです。
親と子の権利がともに保障されているということ、それが、私たちの目指す保育のベースにありました。その意味では、保育に関する条件も大事ではあるけれども、長時間預かればそれでいいとか、産休明けから預かればそれでいいということじゃなく、保育園の集団のなかで一人ひとりが人として豊かに育っていく環境が保障されていること、それこそが自分たちがあらたに共同保育所を始めていく原点だよねと、そんな話し合いを幾度となくしてきたことは、とても大きなことだったなあと思います」。
大人同士も地域のなかで
育ち合う場としての保育園へ
1981年にたんぽぽ共同保育所を開設してから数年の間、阿部さんたちは認可保育園を目指す思いを抱きながらも、まずは一から運営基盤を築き上げることに精一杯の日々。それでも認可へ向けた機運は仲間内で徐々に高まるようになり、阿部さんたち保育士と保護者、さらには地域の人たちはあらたに「たんぽぽ保育園の認可を実現する会」(実現する会)を結成します。
実現する会では、バザーや物品販売などによって、約1300万円もの準備金と、約1万人の署名を集めるに至りました。そうして、たんぽぽ共同保育所の開設から7年経った1988年に、たんぽぽ保育園は生後8週の産休明けから3歳までの乳幼児を預かる山形市内初の認可保育園として開設されます。その後1998年には、0歳から就学前までの乳幼児を預かる「たつのこ保育園」も共同保育所からの認可運動を経て開設し、2000年にはたんぽぽ保育園での受入れ年齢も就学前の5歳までに変更。さらに2008年には3園目となる認可保育園「とちの実保育園」も開設しました。
かつて仙台で取り組んでいた保育問題研究会活動のように、保育のこと、子どものことを語り合って学ぶ場がほしいと感じていた阿部さんが無認可時代に始めた勉強会は、当初たった2人でした。そこから、紆余曲折ありながらも、当時山形大学で教鞭をとっていた西村學教授との出会いにより、勉強会は「山形保育問題研究会」として再出発し、発展してきました。さらに、山形市内外の保育関係者たちとつながる機会としてあらたに結成した「山形県保育関係団体連絡会」では、講演会や1泊2日の研修会を開催するなどして、現在も地道に山形県内の保育者と市民活動の輪を拡げています。
「共同保育所という成り立ちからして、預ける者と預かる者の関係では絶対成り立たないっていうのは、骨の髄から感じてきましたし、子どもも大人もともに成長を目指す『共育ち』という言葉を保護者との関係づくりの基本にしてきました。保育園というのは、地域の共有財産ですよね。でも実際には地域にどれくらい返されているかというと、まだまだ歯がゆい思いでいます。次の世代に対して、何をつなげていくことができるだろうかと。人が育つ場が地域のなかで複合的に重なり合って、そこに行けばお年寄りにも会えるし子どもにも会えるし障がいのある方もいるし、地域の人たちが自由に出入りして、いずれは自分もこういうところで何かのかかわりを持ちたいなと思えるような、そうした地域のいろんな『共育ち』をきめ細やかにつくれたら、どんなにいいかなあと思いますね」。
年々、国の施策により保育士の処遇改善がなされていますが、一方では、保育の質と専門性向上を目的に保育士キャリアアップ研修等が実施され、保育士はこれまで以上に多忙を極めている実情があります。また、保護者のライフスタイルも多様化しており、時代に即した「共育ち」のあり方を模索していると、阿部さんは率直な思いも語りました。
まず、保育士と保護者と地域とが、どのような目線を共有するなかから、保育を通じた学び合いは生まれてくるのでしょうか。後編では、阿部さんの母親としての体験や、心に残る保護者との交流などについて紹介します。
(後編へ続く)
参考文献:橋本宏子『戦後保育所づくり運動史 「ポストの数ほど保育所を」の時代』ひとなる書房、2006年