real local 山形「『安心』な保育って、なんだろう」阿部幸子さん 後編/わたしのスタイル5 - reallocal|移住やローカルまちづくりに興味がある人のためのサイト【インタビュー】

「『安心』な保育って、なんだろう」阿部幸子さん 後編/わたしのスタイル5

2020.08.28

阿部幸子さんは、1981年に仲間や保護者、地域の人たちと無認可共同保育所を立ち上げて以来、「子どもが健やかに発達する権利」と「女性が働き続ける権利」を同時に守るための保育について、探求・実践してきました。

1988年には、保育士仲間や保護者、地域の人たちとの認可運動を経て、山形市内で初となる生後8週の0歳児から受け入れる認可保育園「たんぽぽ保育園」を開設。阿部さんは、たんぽぽ保育園園長や、その後開設した「とちの実保育園」園長を経て、現在は3園を運営するたんぽぽ会の法人事務局を担っています。

今もたんぽぽ会の保育理念には、「共育ち」が掲げられていますが、共育ちとは、子どもと大人、子ども同士、大人同士がともに学び合いながら成長を目指すこと。後編では、認可運動のなかで、保育士として、母親として、阿部さんご自身が体験してきた「共育ち」について、語っていただいた話を紹介します。

前編はこちら

「『安心』な保育って、なんだろう」阿部幸子さん 後編/わたしのスタイル5
たんぽぽ保育園とたつのこ保育園の合同運動会のようす(提供:社会福祉法人たんぽぽ会)

――共同保育所を立ち上げる際に、ご自身が母親であり保育士でもある立場から、自らが預けたいと思える保育をお考えになったことは、保育のあり方にもきっと大きな影響があったのではないでしょうか

阿部:でもね、最初からそこが見えていたわけではないんです。実はね、山形に来てから子どもができて、共同保育所を始める前には、上の子をすぐ近くのベビーホームに預けたんです。あちこちの保育園を見学し、多少の手応えをもちながら預けたんですけれども、そのときに、自分はこれまで保育士の視点で保育を見ていたけれども、親の視点になるとすごく違う見え方になるんだなと気づいた出来事がありました。その話は、上の子が20歳になったときに、本人にもこんなことがあったのよって話をしたんですけれどもね。

「『安心』な保育って、なんだろう」阿部幸子さん 後編/わたしのスタイル5
阿部幸子さん

そのベビーホームはね、比較的こじんまりとした10人くらいの保育園で、自宅のすぐそばにあったんです。保育室のなかには親が入れないシステムになっていて、玄関で「お願いします」って預けて、夕方「ありがとうございました」って我が子を受け取るのね。

ときどき、「中を見せてもらってはだめですか?」って聞くと、「いいですよ」と言って拒むわけではなく見せてくださったので、そういう形式が、ただ日常的なかたちだったんですね。

あるとき、子どもを迎えに行って、「お疲れさまでした。ありがとうございました」と言って保育士さんから我が子を受け取って抱いたら、「あれ?この子、熱があるなあ」って気がついたんですね。それで、「この子、熱がありますね」って私が言ったら、保育士さんが「え、そうですか?気がつきませんでした」っておっしゃったの。

私も保育士だから、若い頃には園児の熱が出ていることに気がつかないまま保育していた経験もあるし、保育士さんを責めるつもりは全然なかったんだけれども、でもそのときにふっと思ったのが、「もしかしてこの子は、今日一日、一度も抱っこされていなかったかな」っていうことだった。その考えがふっと自分のなかに思い起こされると、帰ってからはもう切なくて切なくて。熱があったのに気が付いてもらえなかったというその事実よりも、もしかしたらこの子はこの一日に、一度も抱っこされていなかったんじゃないかっていう思いが自分のなかに広がっていったことの切なさ。

ああ、親っていうのはこういう考え方をするんだなあって、そのときに初めて思ったんです。保育士さんも決して悪い保育士さんではなかったし、一生懸命やってくれているのは十分わかっていたんだけれども、働きながら子どもを預ける親っていうのはこういう切なさを抱えるんだなあということを、そのときにすごく実感しまして。

これはもう、保育園っていうのは保育士の視点だけでは運営できない。いくら頑張って「自分たちがいい保育を一生懸命勉強します」って言ったって、それだけでは足りない。現場で常に親の目をもち合わせていないと、これは大きな落とし穴に落ちることがあるんだなっていうことがわかったんですね。

親の切なさは、どんなに頑張っても24時間、目の前で見ていられないこと。自身が選択したとはいえ、何らかの切なさをやっぱりどこかで抱えているのが親だから、認可保育園になってからも、そうした親の思いに寄り添うというようなことは私たちの仕事の柱にしていかなきゃいけないよねって、保育士同士でよく話し合いをした記憶がありますね。

――その後、たんぽぽ保育園の認可運動のなかでは、約1万人の署名を集めていらっしゃいます。保育内容に対してなど、さまざまな共感が広がってのことだと思いますが、これはとてつもない数です

阿部:あの頃はね、市民運動が根付いていて、組合運動も盛んでしたし、大学や学校の先生たちもものすごく力になってくれたんです。私たちも、理念ばかりは高く掲げていたけれども、実際の建物なんかは借家住まいで劣悪な条件で、日曜のたびに集まってバザーの準備をしたりしていて。

そういうところに、錚々たる人が保護者として集まっていたんですね。厳しい労働条件のなかで働くお父さんお母さんもいたし、保育に対する意識が高い人たちもいた。そうしたあらゆる人が混在しながら一つの団体としてすごくうまく機能していたんだなあと思います。失敗はいろいろあったけれども、保護者に軌道修正してもらったという記憶がたくさんありますね。細かいことだけれども、園だよりひとつとってみても、「阿部さん、いいんだけどね、親に伝えるときはこういう文言のほうが伝わりますよ」っていうようなことを、当時山形大学にいらした先生から指摘してもらったり(笑) 本当にいろいろ教えてもらいました。

いろんな保護者がいて、みんな対等、平等な関係をうまくつくれていたんです。けれど、保護者たちはいろいろな経緯でたんぽぽ保育園につながってきているんですよね。すると運営はもちろん、保育の内容も自分でつくるぞくらいの勢いで。よく怒られたから、私(笑)

「『安心』な保育って、なんだろう」阿部幸子さん 後編/わたしのスタイル5

実際に育てられながら、私もやってきたの。だからね、楽しかった。ほんとに楽しかったの。若い人たちに無認可時代の話をすると、「すごい苦労だったんですね」って反応が返ってくるんです。まあ苦労といえば苦労だけれども、楽しかった。

そういう幅広い人たちに支えられて、そして社会的にも彼女たちがつながっている組織を紹介してもらいながら署名の依頼をしに行ったりとか、そういう一つひとつのことがね。あの時代に、あの人たちと同じひとときを過ごすことができたことは、とても幸運なことでしたね。

――子どもたちの社会を尊重しながら、そこに大人の社会がゆるやかにつながっている、そんな保育園のすがたが印象的なのですが、子どもを預ける家庭によって保育に対する価値観はさまざまですよね。認可運動のなかでは、子どもと保育士と保護者とがつながるために、どんな意識が共有されていたのでしょうか

阿部:共同保育所を立ち上げた最初の頃は、とにかく何をするにも保護者と保育士が一緒でした。行事なんかも、保護者と一緒に実行委員会をつくって、行事内容だけでなく財政的にも一緒につくっていかなければならないので、バザーも物品販売もすべて一緒にやって。保育士と保護者とが同じようにこの保育園を支えていくんだっていう機運がありました。

今振り返ると、あの頃の保護者たちの労働条件が豊かだったかというと決してそうではなく、劣悪な労働条件で毎日働いていた方も多かったですが、それでも夕方の30分間は、「物品販売のためにちょっと地域をまわってきます」と時間を割いてくれたり、日曜日はみんな子連れでわざわざバザーの準備をしに来たり、エネルギーにあふれていたんですね。自分が頑張ると頑張った分だけ我が子の保育に返っていくというのが、実感できていたのだと思います。

「『安心』な保育って、なんだろう」阿部幸子さん 後編/わたしのスタイル5
たんぽぽ保育園の4、5歳児保育を実現する会結成総会で話す阿部幸子さん(提供:社会福祉法人たんぽぽ会)

忘れられないお母さんの言葉として、いまだに心に残っているものがあるんです。無認可時代が7年間でしたが、いよいよ認可保育園になるその前の年に、やはり認可のための自己資金がかなり必要だとことで、みんなでクリスマスケーキの注文取りをしたり、財政的な支えを生み出すようなことを保護者と一緒にやっていたんですね。ただ、認可はもう目前で、当然私たちは0歳から5歳までの一貫保育を望んでいたんですが、45歳児の保育はもうこれ以上増やす必要はないと市に言われて受け入れてもらえなかったんです。それで仕方なく、まずは認可保育園になって公のお金で運営できるように、0歳から3歳までの保育園としてスタートさせましょうと、運動をともにしてきた保護者と保育士たちで結論を出しました。

「『安心』な保育って、なんだろう」阿部幸子さん 後編/わたしのスタイル5

すると、なかには認可の翌年には我が子はもう4歳で、一緒に保育園で過ごせないっていう親子が何人かいたんです。もちろんその方々も話し合いに参加していて、まずは今は3歳まででもいいから認可を優先して考えようという結論を出していったんですけれども。でも私はその結論を出しながらも、あのお母さんと子どもは一緒につくった認可保育園に入れないんだよなと、申し訳ない思いがずっとあったんです。

そんなあるとき、たまたまそのお母さんの一人とゆっくり話をする機会があってね、「1年後には、◯◯ちゃん、たんぽぽ保育園に残れないんだよね。でもお母さん、本当に一生懸命かかわってくださって心から頭が下がる」って話をしたら、そのお母さんはね、「何言ってるんですか」と言ってくれて。「私は子どもが生まれる前から働いていて、働きながら子育てしてきて、たんぽぽ保育園にめぐり合うまでに2回保育園を移りました。それまでの保育園は、我が子を大事にしてくれているという実感が持てなくて、自分が働き続けていいんだろうかという、子どもに対する後ろめたさを抱えながら働いていたんです。そうした思いが原因で保育園を移るなかで、ようやくたんぽぽ保育園に出合いました。ここでなら我が子ものびのびと遊んでくれるし、この子にとって楽しい環境を与えてもらえる。そう思えて、すごく安心したんです。きっとこの先も自分が長く仕事を続けていくうえで、何があっても頑張ろうと思える一つのきっかけをつくってくれたのがここなんです」というようなことをおっしゃってね。さらに、自分が働くことで子どもを犠牲にしているという思いを背負っている若いお母さんはいっぱいいると思うんだと。

だから若い世代の次のお母さんたちに、我が子が保育園の集団のなかで本当に楽しい時を過ごせていると思える、そういう保育園を残してやりたい。そのためであれば、認可運動で我が子が入れないから大変だとか苦しいとか、そんなことはまったく思わないんですとおっしゃってくれて。もう、すごいなあとしみじみ思いました。

こういうお母さんたち、お父さんたちに、私たちはいっぱい支えられてきました。歴史はそういうふうにして、しんどいけれども先を見据えながら「いま自分にできることは何なのか」ということで最大限頑張ってくれた人たちによってできている。こうしてつないできてもらっているのだなあと、つくづく思いますね。

「『安心』な保育って、なんだろう」阿部幸子さん 後編/わたしのスタイル5
たんぽぽ共同保育所時代の児童と保護者、保育士たちと(提供:社会福祉法人たんぽぽ会)

<プロフィール>

阿部幸子(あべ・さちこ)

秋田県出身。仙台市内の専門学校を卒業後、保育士として仙台市内の保育園に4年間勤務。結婚を機に山形市へ転居し、1981年に保育士仲間や保護者、地域の人たちとともに「たんぽぽ共同保育所」を開設。認可運動を経て1988年に、山形市内で初となる生後8週の0歳児から受け入れる認可保育園「たんぽぽ保育園」を開設し、園長を20年間務める。その後、とちの実保育園園長を経て、現在は認可保育園3園(たんぽぽ保育園、たつのこ保育園、とちの実保育園)を運営する社会福祉法人たんぽぽ会の法人事務局を担っている。