旅のはなしvol.7/髙橋天央さん、亜津子さん「綿毛のように」
地域の連載
山形で独創して営む人たちに尋ねました。忘れられない旅のこと。歩んできた道のりのこと。そして、今について。ご本人たちの語りで届けるシリーズ「旅のはなし」です。
天央:デザインするとき、「どうしてもこうがいい」というのはあまりないんですよね。料理人さんはお客さんが何を食べたいのかを聞いて初めて料理できるのと似ているのかな。ただ、お客さんの「おいしい」に自分の感覚を重ねていくのは、さじ加減というか。採れたての野菜にファストフードのソースを添えてみることだってできると思うんですね。デザインするときは、質やコストのバランスを考えて、少しずつゴールに寄せていくというか。でも、こちらの思いを伝えてもお客さんの心が動かないときもあって、そういう場合は信念なので、完全に相手の信念を具現化できるようにしたいなあとは思っています。
家具のデザインに興味をもったのは、大学4年生のときですね。1960 年にデンマークのヴェルナー・パントンがデザインした「パントンチェア」のミニチュアを、ゼミの先生の部屋で見たんです。そのときの感覚で言うと、北欧っぽくなくて、未来的。今からだと60年も前のものですが、スタッキングできたりして機能的だし、生産面でも合理的で。こんなすごい椅子があるんだ、デンマークってなんかいいところだな、と思ったんですね。すでに妹がノルウェーに留学していたということもあって北欧には親近感を抱いていたんですが、さらにデンマークという国に興味が湧いたきっかけでした。
そうして大学を卒業後、そのままデンマークへ渡って現地の教育機関であるフォルケホイスコーレに入学するんですが、そこでは、デザインの座学というよりも、与えられた課題と向き合う日々。先生たちは否定はせず、実践的なアドバイスが多かったですね。「これは誰にとってプラスになるのか?」とか、いろんな問いを投げかけて、どんな方向性であっても伸ばそうとしてくれるんです。留学は1年間だったんですが、すごく居心地がよかったので、離れるときは辛かったですね。
日本に戻って就職した大阪のデザイン会社は、主に家電製品やスポーツ用品をデザインしている会社でした。まあ、会社概要を読んで家具のデザインができると思って入ったんですけど(笑) 自分がそこでデザインしたもので一番気に入っているのが、ドライヤー。事務所内でスケッチを出したときにはものすごく不評で、「なんだこれ、なめてんのか」って結構ボコボコに言われたんですよ。
だけどたぶん数合わせみたいなかんじで上司がクライアントに持って行ったら採用されて。自分でもすごくいいと思っていたし、ドライヤーはいつも置き場所に困るものだったから、自分自身でもほしいなと思うデザインにしたんですね。この会社では、新たに商品を開発するときは、まずマトリクスを組んで市場調査からやるのが常でした。でも、まわりの製品を見るということは、既存のイメージに染まっていつの間にか「こういうかんじ」というのがインプットされてしまうんですね。それはいい面もあったし、悪い面もあったなあと思います。
亜津子:私はその頃、横浜で就職して教員をやっていたんですが、結婚を機に私も大阪へ行くことにしたんですね。仕事は一区切りという気持ちだったので、最初はカフェでバイトでもしようかなって思っていたんですけど、バイトの面接にことごとく落ちて。そうしたら、天央のフットサル仲間で主に家具の古道具屋さんをやっている人が、倉庫として借りている古民家をショール―ム兼カフェにしようと思ってるなんて言うので、「じゃあぜひ雇ってください」って言ったら、「いや、全部任せるから」って。それで、自分で大阪でカフェをやることになっちゃった(笑)
天央:ほんとにバイト落ちてよかったよね(笑)
亜津子:だけどそのオーナーがオープンの日を早々と決めてしまったものだから、漆喰塗って、腰板をバンバン打ったり、一人でせっせと店づくりをしていたんです。ちょうどそこへオーナーのおかあさんが様子を見に来て、一人でコツコツやってる私の姿はだいぶ健気に映ったんだと思う(笑)
そのおかあさんは別の場所で古道具屋さんをやっていたんですけど、若い頃には喫茶店もやっていたので、親切にもコーヒーの豆屋さんを紹介してくれたり、とにかくカフェをやるためのノウハウをすっかり教えてくれたんです。素敵な食器もどっさりと貸してくださって。本当にありがたいですよね。
お客さんも含め年上の方々に囲まれて、とてもかわいがってもらいました。今もそうですが、私にとって、義父が経営している山形市内のカフェEspressoは素敵なお店だという思いがあって、あんなふうにお客さん同士が自然につながれたり、会話を楽しめたりするお店にしたいな、ということは当時も考えていたんですね。
なのでそのとき少し工夫したのは、メニューの名前。例えば普通のパウンドケーキなんだけれど、「バナナのJohndana」と名付けてみたり。「じょんだな」って、山形弁で「上手だな」という意味合いで。あとは、かぼちゃのケーキを「かぼちゃのhenaco」とか。「へなこ」は「女の子」。字面も響きもかわいいなと思う山形の言葉を選んだんですが、みなさんいろいろ声をかけてくださって、これはなかなかうまくいきました(笑)ちなみにお店の名前は「koids cafe」。山形弁の「来いず」です。
ランチを始めたときにも、芋煮を出してみたり、結構山形アピールをしていましたね。店はいつもひとりでやっていましたが、忙しいときは、オーナーのお店で働くおねえさんが手伝ってくださったりして。
常連さんのおじいさんとは今でも年賀状のやり取りをしていて、いつも奥様が描かれた絵はがきに、素朴で温かい文章がつづられています。出産のために大阪を離れることになったのですが、再び二人目を妊娠した時には早々に安産の御守りを送ってくださって。本当に素敵な人たちに囲まれて、幸せだったなと。
長男が生まれて1歳半のとき、久々に大阪へ遊びに行ったんです。カフェをしていた古民家はマタニティフォトのお店になっていて、変ったところも変わらないところもありましたが、新しく生まれ変わったその空間を見ることができて、楽しかった。オーナーのおかあさんもお元気そうでうれしかったですね。
天央:山形に戻ってきてからは朝日町に住み、家具の製造会社の設計部に勤めたんですね。いろいろな仕事をやらせてもらいましたが、今の店で扱っているバッグも、このとき会社で立ち上げた事業なんです。
社長と話すなかで、家具の余り布や革は丈夫だから、バッグをつくったらおもしろいんじゃないかというアイデアが生まれて。その後、山形市内でデザイン事務所として独立することになった際、こうして事業ごと引き連れていくかたちになりました。デザイン事務所と雑貨販売とともにカフェを始めたのは、今の場所に移ってからですね。なにか綿毛のようにここまで飛んできましたが、振り返るとこれまでの経験のすべてが無駄にはなっていなかったなあと思います。
自分にとって最初の旅は、大学2年生の時でした。リュックサック一つ背負って、一人でイタリアに行ったんです。デザインにおいては最も進んでいる印象がありましたし、学生時代にバイトをしていたお店の人が「北イタリアで山小屋をやっているからいつでも遊びにおいで」と言ってくれていて。
当初はしばらく山小屋に滞在したんですが、電気も通っていないようなところで、とにかく自己と向き合う日々。言葉もほとんど通じないし、すごく寂しくて。しばらくそれが辛いんですけど、でも2週間くらい経った頃から毎日の何気ないことが、すごく楽しくなるんですよ。朝起きて、今日は何を食べようかとか、どちらの道を行こうかとか。生活することに対する感覚が研ぎ澄まされていくというか。同時に、いろんな人に出会うなかでも、自分のなかの「スタンダード」の殻が破れていく。
その意味でも、あらゆる文化の人に会うことは、とても大事だなあと思います。デザインにおいても、自分の場合は基礎を習ったことがなく、ひたすら実践を積み上げてきたんですが、それが逆によかったなあと思うところがあります。「こうあるべき」という枠は、これからも持たないでいきたいなって思いますね。
<プロフィール>
髙橋天央(たかはし・あまお)
1981年山形市生まれ。宮城大学で建築を学んだ後、デンマークへ留学。帰国後、大阪のデザイン会社に就職し、2010年に山形へUターン。家具メーカーに勤め、2012年に独立。デザイン事務所およびショップ・カフェanoriを運営している。
髙橋亜津子(たかはし・あつこ)
1981年天童市生まれ。大学卒業後に横浜で教員を務め、結婚を機に大阪へ移住。大阪市阿倍野区の古民家をセルフリノベーションしてkoids cafeをオープン。現在は山形市あこや町のショップ・カフェanoriを切り盛りしている。
anoriホームページ:https://anoriproject.jp/
facebookページ:https://www.facebook.com/anoriproject