【金沢】「古今金澤」開発者・新田一也さん
〜過去と現在をつなぎ、未来を見つめる人〜
ローカル 気になる人
「古今金澤(ここんかなざわ)」というスマートフォンの地図アプリをご存知だろうか。2016年に石川県金沢市に本社を構えるIT会社「エイブルコンピュータ」が提供を開始した、江戸時代の金沢の城下町の絵図上に現在位置を表示し、現代地図と同時比較しながら街の散策が楽しめるスマートフォンアプリです。
そんな「古今金澤」の生みの親であり、歴史・工芸・茶道なども嗜む現代の数奇人ともいえるエイブルコンピュータ代表の新田一也さんに、reallocal 金沢の小津誠一がお話をうかがいました。
古地図アプリ「古今金澤」で時代を超えてタイムトリップ
小津:新田さんといえば「古今金澤」アプリの生みの親ですが、我が社がやっている金沢R不動産でも古今金澤は大変活用させていただいています。
新田:それはありがとうございます。そう言っていただけると開発者冥利につきます。
小津:僕個人もよく使いますし、不動産のスタッフ達も物件案内の際に江戸時代にその場所がどういった所だったかという説明に用いたり、金沢の町案内をするときや移住を検討している方にもアプリを紹介したり、大学の授業でも使って学生にも持たせたりしています。人それぞれに違う使い方もできて、すごく面白い地図アプリですし、しかも無料版であれだけ使えるのはすごいですよね。
開発のきっかけは何だったのですか?
新田:私は金沢城のすぐそばの尾山町に自宅を購入して、近江町市場の近くにある会社まで徒歩で通勤しているのですが、歩いていると「ここには意外と高低差があるな」「ここは特殊な地形だな」などの気付きがあって。たまたま江戸時代の古地図を手に入れたので、googleマップで現在の地図と見比べているうちに「これをスマホアプリにできないかな」と思ったのが始まりです。
ちょうど当社の創業20周年のタイミングだったので創業記念事業として出したことになっていますが、本当のことを言うと、自分が個人的に欲しいから作ったアプリなのです(笑)。
小津:古今金澤で古地図を利用する際に、権利の問題など難しくありませんでしたか?
新田:使いたい古地図の権利を持っているのは石川県立図書館だったので、古地図をこんな風に使わせてもらいたいと問い合わせても「あなたは何者ですか?」となり、当初は理解してもらえなかったですね。でも、企画書を提出すると「館長が会いたいと言っています」と連絡があり、「いいね、私もこういうのが欲しいと思っていたんだよ!」と館長さんが賛同してくださり、古地図を使えることになりました。
小津:その後の開発は順調でしたか?
新田:古地図と現代の地図を重ねてみると少しずれていて、それを合わせるのに苦労しました。調べていると金沢工業大学の増田先生の研究を使えば解決しそうだったので連絡したところ、共同研究としてデータを提供してくれることになり、アプリ化が実現しました。2016年にリリースすると好評で、テレビやラジオにも取り上げてもらい、その反応に驚きました。
小津:開発にはどのくらい時間がかかりましたか?
新田:地図を貸してくださいの交渉から1年以上かかっていますね。古今金澤の開発のきっかけは自分が幼少の頃から憧れていた金沢に住みたいとか、金沢が好きだという気持ちが強いからでしょうね。だから昔の地図を見つけたときも楽しかった。
小津:かなり大変な開発だと思いますが、何のためにやっていますか?
新田:完全に自己満足ですね(笑)。私が知りたいのは未来だけど、実際は過去と現在しか見ることができない。過去と現在を見ることで、未来を見ることができるんじゃないか。金沢が好きなので、金沢の未来を見たいと思っています。
小津:古今金澤は、タイムマシーンのような道具だと思う。家で地図を見比べているのではなく、スマートフォンを持って現地に行き、まさにその場所でアプリが擬似タイムマシーンになって時代を行き来できる。金沢はあちこちに藩政期の面影が残っているので、街角から袴姿のお武家さんが出て来そうな感覚になる。時空を超えて人の妄想を繋いでくれるのが素晴らしい。教育にも活かせるのではないかと思います。
新田:まさにそれです! 今はスマートフォン用アプリですが、授業で使いやすいようにパソコンのブラウザでも見られるようにしたい。小学校で地理の授業が必修になったので、地域の歴史を学ぶ授業が増えると思うので、ぜひ使ってもらいたいですね。
小津:自分の町を知る教育はもっと行うべきですよね。ちゃんと建築と町を知る教育をしないといけない。プログラミングの授業も小学校で必修になったので、古今金澤は教育分野での可能性を感じさせてくれますね。戦災にあっていない街はたくさんあるから、他の地域でも欲しがるアプリだと思う。
金沢とゲームに憧れた少年が、ソフトウェア開発者へ
小津:古今金澤というアプリが誕生したのは、金沢を拠点に活動し、茶道や美食などの趣味も多彩な新田さんならではだと感じますが、プログラム思考やデザイン思考との関係や、仕事と金沢との繋がりもあるのではと興味があります。
新田:私の生い立ちを知ってもらうのがいいかもしれませんね。出身は能美市の湯谷町(旧・能美郡寺井町湯谷)で、今でも信号がない田舎で生まれ育ちました。うちは学校の先生をしてきた家系なのですが、教師をしていた祖父が教育委員会ともめて退職し、屋根瓦をつくる工場をつくりました。しかし、大雪で倒壊して借金だけが残ってしまい、私が幼い頃は貧しくて。小松工業高校へ通わせてもらえたのですが、卒業後はすぐに就職するつもりでいました。
すると、小松短期大学が家から通学できる近所にできることになり、「お前さえよければ推薦してやる」と高校の先生に勧められたのです。親にダメ元で相談したら「お前は長男だし、短大だから行かせてやろう」と言ってくれて、思いがけず進学することができました。
小津:工業高校ではパソコンやプログラミングを学んだのですか?
新田:工業高校ではコンピューターに近づけると思って電気科で学びたかったのですが、先生に「お前の成績では無理だ」と言われて工業化学科に進みました。
私は昭和44年生まれで、中学生くらいの時期にパソコンが一般家庭でも買えるようになっていました。その頃はテレビゲームの全盛期で、自分はゲームを持っていなかったので、パソコン雑誌に掲載されているコードを眺めながら、「パソコンが1台あれば、どんなゲームでも、何でもできる。これからの時代はパソコンだ!」と憧れていました。中学のときに初めてパソコンを使ってプログラムを入力して、コードを独学で覚えていきました。
小津:最初に就職したのはどんな会社ですか? ソフトウェアの会社?
新田:500人くらいの規模で、松下電器のP板(プリント基板)にトランジスタを組み立てるのがメイン事業の地元企業です。自社開発の研究部門に配属され、ソフトウェアの設計を担当したのですが、中学のときあれだけ独学で頑張っていたのに、短大では遊んでばかりいた私には期待されていたほど実力がなかった。
しかし、ここで頑張らないと研究開発部門から出され、組み立てラインに並ぶことになると思い、ソフトウェアやプログラム開発の勉強を真剣にやりました。小松短大で行われている夜間やオープンの授業を受講し、仕事が終われば本屋や図書館に通いました。
25歳で転職、さらに退路を断つため独立・起業
新田:自分なりに勉強して解るようになると、若かったので「俺の書いているソースは芸術的だな」なんて調子にのっちゃって。当時は「SE(システムエンジニア)35歳定年説」というのがまことしやかに囁かれていて、このまま頑張っても頭打ちになるならとP板の会社を辞め、産業用ロボットの会社に転職しました。
しかし、入社してすぐにロボットの組み立てで大失敗してしまい、「あぁ、自分には向いていないのかも」と思いました。35歳定年説に怯えてソフトウェア開発の業界から逃げてみたけど未練が出てきて、転職して3ヶ月で会社を辞めて独立することにしました。
小津:その時は何歳でしたか?
新田:25歳です。自分で旗揚げして追い込んでやってみようと決意して、25歳の7月から個人事業主を始めました。1年間フリーランスでやってみて、何とか形になりそうだと思い、もっと本気で取り組んで自分を追い詰めようと、26歳の8月に「エイブルコンピュータ」を設立しました。
今の時代にIT会社を起こす人は「○○で社会を変える!」といったビジョンがあったりしますが、私の場合は自分をとことん追い込んで、逃げ道をなくすためでした。
小津:ゲームをやりたかった少年が、いよいよ会社を設立したのですね。
新田:会社設立から半年後に1人目の社員が入り、その後も次々とスタッフが入ってきました。売上も伸び、社員の数も増えて、会社らしくなっていきましたが、私たちの仕事はコンプライアンス、機密情報の塊のような仕事だから、受注先の会社へ行って作業をするしかなかい。10人のスタッフのうち社屋にいるのは3人くらいで、他は社外に出ている状態で「自分はどこの会社の人間なの?」って虚しく感じるようになりました。
そんなとき、ISICO(石川県産業創出支援機構)の掲示板に、林業試験場が「木の健康状態を木槌で叩く音で確認するのを機械で解決してくれませんか?」という募集があったのです。その募集に興味を持ち、林業試験場に行って話を聞いたら、別の開発を共同研究でできることになり、ISICOの補助金を使って「森林管理システム 円空」を開発しました。
森林学会で円空が発表されると非常に好評で、「こんなに喜んでもらえるんだ」と嬉しくなり、今までマーケティングも製品づくりも未経験でしたが、円空を製品化して販売することにしました。ホームページで販売を開始し、ほぼ無料で試用できて、本格的に導入する場合は有料になる形にしました。これが最初の自社プロダクトです。その後も研究開発と学会発表を繰り返し、現在はドローンを飛ばして上空から写真を撮影してAIを使って分析するタイプも2023年の製品化に向けて開発中です。
小津:新田さんの会社はWEBやスマートフォンアプリのイメージがありますが、農業や林業などに関連したものがいくつもありますね。先日も新聞で記事を拝見しました。
新田:当社には農学博士で農業法人でも働いた経歴があるスタッフが農業分野の開発で活躍しています。半自動で水田の水門を開け閉めするシステムは、彼が「会社の権利にしていいので、開発できませんか?」と申し出てきたものです。
スマートフォンを使って全自動で管理できる製品も市場に出ていますが、導入は高額な工事費がかかってハードルが高い。当社の製品は5,000円くらいで導入できるので、農家の方達も使いやすく普及すると考えています。
誰かのためになる仕事、未来に残せる仕事がしたい
小津:新田さんの会社は金沢本社と東京にもオフィスがありますが、スタッフの皆さんの出身地は?
新田:金沢オフィスにいるのは石川県出身者ですね。あとはロシア人とベトナム人もいます。うちの会社は職人気質のエンジニアが多くて、金沢が好きな人ばかり。外国人スタッフにも「東京へ行きなよ」と言っても、金沢が好きだから金沢オフィスにいたいと言います。
小津:新田さん自身は、東京で仕事をしようとは思わなかったのですか?
新田:若い頃には取引先の仕事で東京にいたこともあり、当時は「東京暮らし最高!」と思っていましたが、いつの頃からか東京にあまり行きたくなくなりました。東京はレストランに行っても狭苦しく感じたりして、やっぱり金沢がいいなって。
金沢は食事も美味しいですしね。東京からのお客さまも「駅のお寿司屋さんで、こんなに美味しい土地は他にないのでは」と言います。金沢は料理の素材がいいと言いますが、それ以外にも文化的な要因があると思います。『武士の献立』という加賀藩時代の料理の映画もありましたよね。
小津:新田さんは茶道を本気でやっていたり、美食とか、文化施設のパトロンをしていたりするのも金沢が好きだからですか?
新田:茶道は宗和流という流派で15年くらい続けています。金沢は茶道が盛んで、先生がたくさんいらっしゃることもありますが、金沢だからというより、茶の湯や能楽、工芸などの文化に関心があります。流派の違うお茶好きの仲間と毎月茶会を行う「月ノ樂釜(つきのがくふ)」も主宰し、月釜も楽しんでいます。食に関しては子供の頃に、畑で採れたフレッシュな野菜や猟銃で仕留めた鳥も食べたりしていたので、その頃に味覚が育ったのかもしれません。
小津:美食は基礎的な味覚を知っているかどうかが大事ですよね。昔、茶屋街に行ったときに新田さんがお座敷で太鼓を叩いているのを見て、茶屋遊びにも慣れた遊び人なのかと思いました。
新田:あれは人に連れて行ってもらっていただけで、太鼓は自主練していました(笑)。茶道も気軽にお稽古に行ける先生なので通っていますが、京都のお茶会のお手伝いに行ったりして、形から入るので袴も持っています。
小津:自分も建築の人間だから形から入りたい方。新田さんは金沢を楽しんでいますね。今後はどんな展開を考えていますか?
新田:いろいろやりたいことがあります。会社組織になって25周年なので、記念に古今金澤の最新版も出したいと考えています。無料版をリリースした後も、バージョンアップして年代が異なる古地図や、年表のアプリも出していますが、現在準備を進めているのが、金沢市が所有している町人が暮らしていた町屋の古地図バージョンです。
これまで出しているものは武士の屋敷が載ったものですが、江戸時代後期の町屋を町別に描いた古地図があり、ほぼ同時期に作られた町名帳という町人名簿のような史料と照合することで、その家がどんな商売をしていたかまでわかるアプリを開発中です。膨大な情報量があり、古地図と現代地図のズレの調整に苦労していますが、リリースをぜひ楽しみにしていてください。
小津:それはすごいですね。
新田:最近は自分で博物館に入ってもおかしくないような古地図を数十万円出して購入したので、これもアプリに使いたい。金沢には明治や大正時代の古地図も残っているので、年代の違う地図を行き来して見比べられるようにしたいと考えています。
また、青木新兵衛芳斎という金沢市芳斉町の町名の由来となった安土桃山時代から江戸時代初期に実在した武士がいて、いずれは彼を主人公にした漫画をつくり、大河ドラマにもしたいと思っています。その前段階として2019年の金沢21世紀工芸祭「金沢みらい茶会」で、青木新兵衛をテーマにした「偃武草子茶会(えんぶそうしちゃかい)」を企画し、漫画家と組んでデジタル紙芝居を製作して披露しました。
小津:新田さんは未来をどう考えていますか?
新田:私ができるのはソフトウェア開発だけなのですが、建築だと「あの橋は俺が作ったんだぞ」と誇れるように、孫に自慢できるものをつくるのが憧れ。古今金澤をパソコンで子どもが使えるようにしたいのもそのため。
ソフトウェアは寿命が短く、OSがバージョンUPするたびに改変しないといけない。古今金澤は、古地図という充分古いものを扱っているので、情報はこれ以上古くならない。それがパソコンのWEBブラウザで見られるようになれば、孫の代は無理でも、子どもには「お父さんが作ったんだよ」と自慢できるかなと思っています。
その瞬間だけお金を稼ぐ仕事ではなく、誰かのためになる仕事ができるといいなと考えています。お金を稼ぐための仕事も大切ですが、水門や円空のように儲からなくても人に喜んでもらえるもの、ずっと使ってもらえるもの、後世に残るものをつくっていきたいですね。