山形移住者インタビュー/編集・ライター中山夏美 「文章を書く」ことを武器に山形を発信していきたい
移住者の声
山形暮らしを楽しむ #山形移住者インタビューのシリーズ。今回は東京から2020年の秋にUターンをしてきた編集・ライターである私が自らの移住について話したいと思います。
まずは、私が上京し、編集ライターになるまでの経緯から紹介させてください。
5通の手紙とヤル気だけを武器に上京
山形市で生まれ育ち高校を卒業後、蔵王温泉スキー場にある「蔵王ロープウェイ」に就職。樹氷で有名な地蔵山までお客さんを運ぶロープウェイで4年間、乗務員として働いていました。高校の頃から東京に出たい気持ちはあったのですが、経済的理由で進学は断念。東京の就職先として薦められた「はとバス」を受けるも不採用。結果、地元で就職することになりました。
東京に行くことを一度諦めはしましたが、とにかく都会に憧れていたし「ここではないどこかに行きたい」衝動でいっぱいだったので、冒険家の本や作品を見ては影響を受け、ひとりで山に登り、旅にも行きました。その中で『b*p』という1冊の雑誌と出会ったことが大きな転機となります。小学館から発売されている『BE-PAL』の別冊で年に1回、夏にだけ発売される雑誌です。表紙に書かれた「今しかできない旅。ジンセイを変える旅」という言葉が当時の私にとってはとても刺激的で、隅から隅まで読み込みました。
夏フェス、ひとり旅、キャンプ、アウトドア道具……。国内外の旅のルポは一人称で書かれていて、そのライターさんの内側を覗くような文章に夢中になりました。「私もこの雑誌と同じことをすれば、変われるかもしれない」と思い、掲載されていた旅先に行き、同じ道具を買い、そこから私の「ジンセイを変える旅」が始まります。
その気持ちのまま1年が経ち、また夏に新しい号が発売になりました。宮崎あおいさんが自転車に乗る表紙に特集は「ジブンをぶっこわす夏」。隅々まで読み進めると、読者プレゼントのコーナーで「旅賞」という読者から作品を募集するコーナーを見つけました。そこには「この原稿を書いている僕も最初は売り込みでした」とあります。「作品を売り込めば、私もこの世界に入れるの?」何かが一歩動き出すのを感じました。
同じ年に『b*p』に載っていたことが理由で、東京に上京していた友人と「フジロックフェスティバル」へ。キャンプが初めてだった私たちは、借り物のコールマンのテントが立てられず、キャンプサイトの入り口にあった「キャンプよろず相談所」に駆け込み、4人の男性にテントを立てるのを手伝ってもらうことに。そこに『b*p』が置いてあるのを見つけ、なぜ置いているのかを聞くと「僕たちが『b*p』を作っているからだよ」と言われました。フジロックの入り口で起きた奇跡。そこで私はいかにこの雑誌が好きで、ジンセイが変わり、作品も応募したいんだということを相手が引くぐらい興奮して話したと思います。すると彼らは「作品を送ってきなよ、待っているよ」と。その夜、再び「よろず相談所」に行くと、編集長を紹介してくれ、その人からも「作品待っているね」と言われ、21歳の私は「今を抜け出せる」と何の疑いもなく思ったのです。
フジロックから帰ってきた私は、見様見真似で作った旅のルポと履歴書、雇ってくれるのであれば会社を辞めて上京しますという手紙を添えて、その編集長に送りました。一度では伝わらないかと思い、二度、三度と送り続け、4通目を送っても返事はなし。だけど落胆することもなく、むしろ雇ってくれるなら会社を辞めるなんて都合が良すぎる、会社を辞めて東京に行くしかないと勝手に決めつけ、退職願を提出。22歳の春、晴れて東京に行くことを決意したのです。
上京してすぐ「東京に来ました。いつでも連絡をください」と、再び手紙を送りました。その数日後、私の世界が一気に変わります。「『b*p』の編集を担当しているものですが、一度会ってみたいので会社に来ていただけますか」。小学館から仕事を受けている編集プロダクションの方から電話がきたのです。面接をしてもらい、運良く雇ってもらうことが決定。5通の手紙とヤル気だけを武器に上京し、唯一の繋がりを握りしめて編集・ライターとしての道をスタートさせました。その1年後には、テントを立ててくれた先輩たちと共にフジロックにスタッフとして参加。まさに「ジブンをぶっこわす夏」を体験したのでした。
東京で暮らし続けることへの漠然とした不安があった
その出会いから東京で14年間編集・ライターを続けてきました。アウトドア誌をメインに、映画誌、カルチャー誌、WEBメディアでの執筆を担当。最初は先輩に怒られる日々でしたが、ここ数年はやっと自分のペースで仕事をこなせるようになってきたように思います。それと同時に、漠然と東京での暮らしを維持し続けることへの不安がありました。これはフリーランスならではの悩みなのかもしれません。仕事量に波があるため、どうしても収入面での不安を常に抱えているように思います。それだけではなく年齢とともに仕事への向き合い方も変わっていき、実力の差も生まれます。SNSなどで大きな仕事を担当している同世代を見ると、生活を考えて現状維持をキープすることに必死な自分は置いていかれているようにも思っていました。ガムシャラに働き続けなければ、生きていけない状況に、押しつぶされそうになる気持ちがどこかでずっとあったのです。
その中で山形で暮らす彼と付き合うようになって、しばらく離れていた地元に頻繁に帰るように。休日には車ですぐの場所にキャンプや温泉に行き、都会の喧騒を忘れてゆっくりと過ごす時間を心地いいと感じるようにもなっていました。ぼんやりと山形での暮らしを想像することも増えながらも、仕事をどうするのか? そのことがずっと気がかりだったのです。
2019年に彼と入籍。別居婚というスタイルを選び、私は山形と東京の二拠点生活をスタートさせたのですが、すぐに妊娠していることがわかりました。そして子供のことを思い、山形に戻ることを本格的に考えるようになりました。東京でひとりで子供を育てるハードルの高さを考えたら、山形で夫と子供を育てたほうがいいとは頭で思いながらも、やはり東京を離れたくない思いもありました。東京に憧れ、やっと手に入れた生活、仕事、人の繋がり。それをすべて手放すのか? そう思ったら簡単に気持ちを切り替えることはできませんでした…。
その後、東京が緊急事態宣言を発令したので仕事もリモートになり、雑誌づくりの現場もどんどんやり方が変わっていきます。アナログで提出しないといけなかったものがデータでやり取りOKになり、取材もZOOMなどを使ったリモートで対応することが増えました。外に行く機会が減ってはいたけれど、今までと変わりなく家で仕事ができる。それはもしかしたら、山形に戻っても仕事を続けられるのかもしれない。少し希望が見えてきました。緊急事態宣言が解け、山形に戻ってきている間に、東京の取材班が地方に行くリスクがあるからという理由でこちらでの仕事を申し込まれたことも私が決心するきっかけとなりました。
山形の発信基地としてお手伝いをしていきたい
実際にUターンしてみて、今の山形は私が知っている地元とは違うと感じました。都会的なお店も増え、思っていた以上に若い人が戻ってきているし、新しく入ってきている気がしています。Uターンというより、新しい土地に移住をした気持ちです。戻ってきていちばん良かったことは、子供を育てる環境の良さ。私も夫もアウトドアが好きなことから、子供にも早いうちから自然体験をさせたいっと思っていたので、外での遊びを大事にしている「たんぽぽ保育園」に入園させました。幼児クラスの子は、日常的に千歳山に登りに行き、夏は馬見ヶ崎川で川遊び、親子キャンプ体験まであります。都会の保育園も公園遊びはあっても、山や川に連れて行ってくれるというのは、なかなかないのではないでしょうか。市内にある児童遊戯施設の充実ぶりにもビックリ。しかも無料で使えるなんて、コロナで遠出がしにくい今、子育て世代にはありがたいサービスだと思います。もう少し子供が大きくなったときに利用するのが楽しみです。
仕事面ではリモートで進めやすいWEBメディアを中心に続けています。戻ってくるときには、東京の仕事をメインに継続したいと考えていたのですが、最近は山形のメディアでこれまで私が培ったものを活かしていきたいと思うようになりました。とはいえ、まだ何ができるかはわかっていないのが正直なところ。「文章を書く」ことしか私には武器がないのですが、山形に届いていない文化を届ける、またその逆で県外に出ていない文化を発信できたらと考えています。どんな分野でも発信したいのに術がない、言葉にすることが難しいという方の代わりに、文章にまとめるお手伝いはできるのではないか、と改めて思うようになりました。
私が帰ってきたことで、東京の友達が「山形に来たい」と言ってくれることも増えています。こんな世の中でなければ、すぐにでも来てもらえるのに…と思いつつ、今はそのときのために私自身、山形の魅力を最大限にリストアップして「また来たい」と思ってもらえるような広告塔になれたらと思っているところです。
text 中山夏美
photo 根岸功