【鹿児島県いちき串木野市】強さだけではなく、弱さを愛することで誰かが救われる。そんな物語を私は紡いでいきたい。/物語ライター 屈橋毬花さん
インタビュー
鹿児島県いちき串木野市を拠点に“物語ライター”としてクライアントが形にしたい物語を文字として表現されている屈橋毬花さん。そんな毬花さんからライターとして現在のスタイルを確立した背景等を幼少期からさかのぼって話を伺いました。
自分の描いた世界を託す
「思いついたものを単に書くのではなく、起承転結がしっかりした小説を書きたいと思って。それは小学6年生の時に読んだホラー小説がきっかけでした。」
中学校に進学しても時間があれば小説を書く日々。その中で小説のネタになるような彩りのある場所に身を置くことを頭に置いていたといいます。
高校に進学してからは演劇部へ。そこでは演じる側ではなく、脚本を書く側として役割を担っていきました。
初めて自身の書いた脚本が選出されたのは1年生の冬。それは2年生の先輩たちにとって最後の大会でした。
「何回も推敲した脚本が途中で一から書き直しになってしまい落ち込むこともありました。それでも、先輩たちが笑って終われるように、そして、自分が納得いく脚本になるように頑張りました。」
「演劇部で勉強になったのは「どこまで自分が触れていいのか?」「どこまでを任せるのか?」等を考えられるようになったことです。」
「自分が描いた世界について余白をもたせた状態で「演出がどう解釈して、役者がどのように演じるのか?」を託すようにしていました。葛藤しながらですが、それができることでさらに演劇を楽しめると思ったんです。」
さらに、その経験が無かったら今まで書き続けることはできなかったといいます。
高校卒業後はどんな日々を送ったのでしょうか。
屈橋毬花さん
自分がブレずに責任を持つこと
進学は高知大学へ。心理学を学びながら、まちづくりに関するサークルやNPOの活動にエネルギーを注いでいきました。
特にNPOの活動では大学生が100名参加する大きな企画に携わることになります。
企画自体は数日で終わりましたが、その準備のためにかかった時間は何と半年。
会場や宿の手配、資金調達、講師へのアポイントメント等、やるべきことがたくさんあったといいます。毬花さんはその活動に2年間携わり、1年目は企画統括、2年目は実行委員長の役割をそれぞれ担いました。
「全ての企画を把握して「どのようにしたら私が伝えたい想いを企画として体現できるか?」ということを常に考えていました。」
「運営メンバーの一人でも欠けたら企画は成り立ちません。私にとっても、メンバーにとっても、自分を成長させる貴重な機会でした。気がつけば自然に「皆とどうやって企画と関わっていくか?」を考えるようになっていたんです。」
「時には意見が合わずに喧嘩をすることもありました。でも「自分がブレずに、責任を持っておかないと」といった意識があったので、どんな表現の形であろうと、自分の意図が伝わるのであればメンバーに任せようと思ったんです。」
慌ただしかったNPOの活動も落ち着き、就活シーズンの到来。
その時期に“屈橋毬花”としてお仕事をするきっかけとなる大きな出会いが待っていたのでした。
自分の作品を読んで、責任を掲示してもらうこと
大学の講師と対話していくうちに、やりたいことや夢がわからなくなってしまった毬花さん。
「書くことを仕事にしながら生きていきたい」と思いながらも、就職先が中々見つからず、途方に暮れてしまいます。
そんな時、姉妹を通して鹿児島県内企業のオンライン合同説明会が開催されることを知りました。
事前に関連資料に目を通して気になったのが現在の職場でもある『株式会社下園薩男商店』。「この会社に身を置きたい」という気持ちが心から湧き出てきたといいます。
毬花さんは現在広報の担当をされていますが、社会人になるまで広報の経験は全くゼロ。どんな経緯で今のお仕事に繋がったのでしょうか。
それは、社長との面接がきっかけでした。
「「入社したら何をしたいの?」と聞かれて「広報がしたい」と答えました。可愛い商品や素敵な取り組みがたくさんあるので、それを大きく発信するような広報をしたいと思ったからです。」
「私の活動を発信しているインスタグラムやnoteのことを伝えると、社長はその全てに目を通してくれたんです。それがきっかけで、現在連載中の『イワシとわたし』を私に任せていただくようになりました。」
「一番嬉しかったのは私の過去の作品を読んだ上で、仕事としての責任を掲示してくれたことです。こんなことは生まれて初めてでした。」
「ただ、それは私一人でできることではありません。構想したことについて私ができないことを様々な役割を担っている人に託し、意図を汲み取ってもらい、一緒に表現していくことで色々な人に届けることができるんです。」
弱いから泣く、でも、強いから生きる
現在、会社員として働きながら“屈橋毬花” (本名:橋口毬花)として執筆活動もされています。
大学時代から活動されていましたが、『イワシとわたし』がきっかけで「物語を書いてほしい」と仕事として依頼が数件あったそうです。
“屈橋毬花”は執筆活動される上での屋号。
では、“屈橋”とはどのようにして生まれたのでしょうか。
「“屈橋”って、屈することもない橋だと思っています。どんなに躓いても、強い自分だけじゃない、弱い部分をちゃんと愛した上で、また起き上がり渡っていきたい。それで“屈橋”にしました。」
「高校時代、演劇部の顧問に「君が書く脚本を読むと、明るい部分も暗い部分も含め、大切にしていることや、そこときちんと向き合っていると感じるんだよね」と言われたことがあります。その時に、暗闇の中にも光があって、脚本を通して自然に自分や他人を救っているのではと感じました。」
「クライアントに対して「あなたがまだ受け入れられなくても、私はあなたの弱い部分も愛したい」と思っています。だって、弱い部分もあるから、その人を形づけているわけですし、そこから生まれるその人なりの物語があるんですから。」
「自分の中で「弱いから泣く、でも、強いから生きる」という言葉を大切にしていて。脚本や小説って、それが露わらになるんじゃないかと考えています。これからも“屈橋毬花”としてクライアントの想いや感情を大切にしながら物語を書き続けていきたいです。」
自分や相手の弱さや強さを受け入れること。
それは学生時代の活動や物語を書くことによって自然に身についてきたものだと感じました。
弱さを受け入れ、誰かに託すことで紡がれていく物語は
今後も迷いの淵にいる誰かに小さな光を照らし続けていくのではないか。
そんな温かな予感がしてなりませんでした。
屋号 | 屈橋毬花 |
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