【金沢】「自然とそこに在ること」への実験/アーティスト・さわひらきさん
インタビュー
「里見町APARTMENT」に、ちょっと“異質”な空間が誕生しました。スタジオ?SOHO?サロン…?その名は「fishmarket」。今回は運営者の一人であるアーティストのさわひらきさんに、この場を持つに至った経緯や、ここでの試みについてインタビューしてきました。
さわひらき/1977年石川県金沢市生まれ。高校卒業後に渡英、ロンドン大学スレード校美術学部彫刻家修士課程修了。現在はロンドンと金沢を拠点に制作をつづけている。自身の心象風景や記憶のなかにある感覚をもとに、映像・立体・平面作品などで構成されたヴィデオインスタレーションを発表する。こうした作品をはじめ、近年は映像の配置を彫刻的にとらえた空間構成や、立体や平面作品を併置させるなど、映像と展示空間が互いの領域を交差し、入れ子状になるような作品に取り組んでいる。
アートと人と時間、意志なき同居のおもしろみ
このスタジオのアイディアには、いくつかの別々の時間に起きた経験が背景にあります。
ひとつは、名古屋のテレビ塔の中にできたアートホテル(THE TOWER HOTEL NAGOYA)で作品をつくった時の経験。そこは一室一室作家が違うのですが、僕はレストランを担当させてもらったんです。
僕の作品は、映像とか「空間を構成する」ものが多くて、これまでも各地の芸術祭などホワイトキューブ以外の展示も多かったのですが、“宿泊施設”で作品をつくるのは初めてだったんです。それも1ヶ月間そのホテルに滞在しながらの制作で。
作品が出来上がって感じたことが、そこでの「時間軸」は、美術館や芸術祭とは異なるのだということ。
例えば15時くらいにチェックインして、そこから空間が夕方の光になっていく。日が落ちてきたら、それまで見えていなかった映像作品が現れて、オブジェも光りだす。そして朝食の時間にはまた光が強くなり、真っ白なスクリーンだけがそこにあって…。チェックアウトまでの約18時間の滞在の中で、作品の見え方が刻々と変わっていく。それが面白いなと。
美術館だと、一定の光、同じ条件のもとで、彼らの観せたい状態で作品を観せているし、それを観る側も「美術を観に行く」という動機のもと作品に向かっている。だとすると、タワーホテルでの作品は「自然とそこに在る」という状況だったというか。美術と人と時間とが、自然と同居していて、そこに意志はない。その時間軸が良いなと思ったんですね。
教会で詩集を読む女子、作品とただ共に在ること
二つ目の経験は「六甲ミーツ・アート」という芸術祭で、安藤忠雄さんの「風の教会」で『absent』という作品をつくったときのこと。
大きなプロジェクション一つと、小さなプロジェクションが二つ。そして蓄音機のホーンをスピーカーにつけたり、壊れた電子オルガンのスピーカーからも音を出すようなインスタレーションをつくって。そこで流れる音楽は「mama!milk」の生駒祐子さんに、「ずっとループし続ける、円環のような音楽を」とお願いしてつくってもらったんです。
後日、僕の作品を見に行ってくださった生駒さんから連絡がきたんです。「教会の段差に腰掛けて、女子が詩集を読んでいました。それがとても素敵でした」と。
面白いな、と思いました。僕の場合、インスタレーション(この言葉あまり好きじゃないんだけど)として、作品としての空間をつくり、その中で勝負しているわけですが、僕の作品と彼女の“同居の仕方”がまた良い。
僕の作品って「間」が多いんです。「こうですよ」というステートメントを持たず、「世界って多分こんな感じなんじゃないかな?でも違うかもしれないし…」という「間」を表現している。でも、その「間」があったからこそ、彼女はあの空間で詩集を読むことができたんじゃないか。
この二つの経験を通して、自分の中で、「展示している作品」とはちょっとずれた時間軸、それは多分「自然にある」っていう在り方なのだと思うのだけれど、「そういうものがつくりたい」と思うようになったんです。
ものをつくる人達を足留めできるベース
そんなときに、僕の友人から「拠点としてのスタジオをつくりませんか」と声をかけられて。「自分のスタジオはもう金沢にひとつあるからいらない」と当初言ってたのですが、自律できるスペースならいいのかなと。この場所も彼が見つけてきてくれたのですが、美術館に近いし、まず「立地が良い」と思いました。結局その彼は転勤で県外に行くことになり、この場は僕が主導していくことになります。
せっかくそういう「場」を持つなら、僕が占有するのではなく、金沢に来た知人、それも美術館に行ったり「ものをつくろうとしている人」たちの“足留め”をする場所にできたら良いのかなと。特に北陸新幹線が出来てからみんな日帰りするようになっちゃったので。
それは「スタバではないどこか」というか(笑)。金沢滞在中に仕事をしたり友人に会ったりするのって、カフェとかになると思うんですが、もうちょっと占有できて落ち着ける、サロンのような場所があってもいいのかなと。
ちょうど昨日までここに友人が来てまして。ホテルだとテレビとか布団もあってなんとなくダラダラしちゃうし、カフェだとオンライン会議ができない。結局彼は朝9時から19時くらいまでここでリモートワークをして、昼ご飯と夜ご飯は僕の好きなお店に連れて行って。結局2-3泊していきましたね。そんな風に「仕事しながら遊んで、考えられて、友達にも会えて」というベースのような場にできたらいいのかなと。
あとは乱痴気騒ぎでなければ(笑)、どんな風につかってもらってもいいのかなと。「お話会」のような場として使ってもらうのもいいですし。公的な場では角が立つことも、個人のスペースなら自由に講演できるわけで。それは例え自分とは違う主義主張であっても、話す場・表現の場があることは良いことなのではないかなと。
何かと・誰かと共にある “Co-Being”
設計は友人でもあるAB Rogers(エーブ・ロジャース/イギリスの建築家)に依頼しました。彼にお願いした主な理由としては「色」ですね。彼の作品は色が凄い。金沢の曇天の空気にABのど派手な色って似合うなと。モノトーンの“光と影”を駆使した建物は金沢に既にたくさんあるので、そうではなく「異物」をつくりたいと思いました。
ABには例の教会で詩集を読んでいた女の子の話、つまり作品との同居の仕方についても話したりして。「とにかく作品の横で仕事をする場所を提供したい。ご飯を食べて、仕事をして、眠れて。しかもそれを作品の横で。ぞわぞわ・ざわざわしながら仕事がしてみたい」と。彼も「面白そうじゃん」って言ってくれて。そこからアイディアのキャッチボールをしながら進めていきました。具体的なオーダーとかはしていなくて、それは「僕の頭の中にあること」を実現してもしょうがないから。
これは大学院のときの教授で彫刻家のフィリダ・バーロウがよく言っていたのですが「例えアシスタントであっても、人に彫刻をつくらせると気に食わない」って。「でも、人とものをつくるってそういうことだ」って。それも受け入れるのが、“人とつくる”ということだって。
もう一人、この場所の共同経営者として和佐野さんという女性がいます。和佐野さんには東京で会った時に「金沢にこういう場所があったら来る?」と話したら「おもしろいから、私がやる」と言ってくれて。ただのコワーキングスペースを作っても意味ないし、Co-WorkingじゃなくてCo-Beingだと。何かと・誰かと共にある、というか。もっと分からないものにしようって話していくうちに、今結論として何を作ったのか僕ら自身よく分かっていないという(笑)。
彼女の本業は医者なのだけれど、アーティストのサポートをすることをライフワークとして続けている人で。彼女の中では、アートがもたらす作用も、医者が患者を治すことも一緒なんですって。彼女は「世界が美しくなればいい」って本気で思っている人で、その一部としてアートがある。それは僕には分からない思考で、「世界を美しくしよう」なんて僕は全然思わないけど、ただ「豊か」になればいいとは思う。自分が苦労して何かを作った結果として、何かが豊かになれば、それは僕のやりがいになる。
時間軸をずらす“実験”を、この場所で
もともとの自分のスタジオは、制作の場として今も借り続けています。どちらかというとここ(fishmarket)は、制作もできるけれど、僕にとっては「実験の場」なので。
先に話したように、僕は「時間軸をずらす」ということをここでやりたい。時間軸といっても様々で、それは一日における時間軸であったり、作品として在り続けるスパンの時間軸でもある。
通常の展示だと2〜6ヶ月という規定の期間があって、展示が終われば作品は解体されるわけです。僕自身そういう環境での展示を20年くらい続けていますが、ある種作品を使い捨てるような展示の在り方には思うところもあって。
じゃあここで、半恒久的に作品を置いてみたらどうなるだろうと。規模は全然違うけれど、ドナルド・ジャットが、展示ごとに作品が壊されることへの作品外でのアクションとして、マーファの砂漠につくった私設美術館のように。
こうして僕が真面目にやっている「作品と在る時間をずらす」なんて、生きていく上では何の役にも立たないことですよね。だったら、「Googleで検索されるための三つのワードの入れ方」とか学んだ方がよっぽどマシ(笑)。でも僕はとにかくこのこと興味があるし、面白いと思ってしまう。アートってそういうものだと思うんです。
六甲の教会で詩集を読んでいた女子、美術館で本を読む、とか。そういうことが本当に大切なことだと、僕は思っていて。「インスタを撮る」とか「作品を理解する」とかではなくて、ただ「作品と共に在る」ということ。その在り方ってすごく自然だなと。
自ら 徒然なるままに
アーティストが、それぞれの表現で、それぞれに作品をつくることの意味、ですか?(しばし考え込んで)昨年、この場所で「お茶」の展示をしたんですよ。そのときに映像でお茶を点ててくださった方が、廣田吉祟さんという兵庫の方で。彼は「お茶の流派」というものにとても興味を持っていて、流派の研究をしすぎて所属していた流派から破門されたという方なんです。茶道では「流派を超える」ことは禁忌ですからね。
彼と会話していたときに興味深かったのが「流派は、放っておくと際限なく広がるものだ」という話。千家から始まる流派をとっても、表千家と裏千家に分かれて、さらにその二つから枝分かれして…今はわかっているだけでも日本には約100の流派があるらしく。どんどん細分化が進んで、そして最終的には「消える」んですって。それを、消えてしまわないようにホールドするのが茶道における“流派”の役目なのだとおっしゃっていて。
この話から何が言いたかったかというと、いろんな人が、いろんな考えを持って、いろんなものを作る。それって“自然”だというか。一言で表すなら「多様性」とか「ダイバーシティ」とかになるとは思うのですが、「ダイバーシティでなければならない」とそれを構造化してしまうのは少し気持ち悪いというか。「多様でなければならない」ものではなくて、本来それが“自然”なはずで。もちろん、現状を是正するためにあえて使っていることも理解できるのですが。
そういう言葉を使わないとするならば、それは「成り行き」とか「ナチュラル」になるのかなと。明治の初めに「nature」を「自然」という言葉に換言した日本人ってすごいねって、友人と話していたんです。「自ら徒然なるままに」が「ナチュラル」であると。
和佐野さんが僕のこと「さわさんは中動態だ」って言うんです。能動・受動とかじゃなくて、ある事象があって、それに対してどう対応するかという。確かに僕の思考って常にそうなんです。自分からは動かない。あることに対するレスポンスとして、こうしてものを作っているし、この場所だってそう。だとすれば、人がものを作るのも、茶道の枝分かれも、宇宙のエントロピーだかなんだか知らないですけど、そういう大きな広がりの一部なのかな。
(取材:2022年5月)
※「fishmarket」写真/撮影:さわひらき