坂本大三郎の「山の書評」(3)
地域の連載
民俗学的フィールドワーク、様々なアートワークなど、多方面で幅広い活動を展開している山伏・坂本大三郎さんによる「山の書評」シリーズです。
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今回は折口信夫の『古代研究Ⅱ(中公クラシックス)』を紹介したいと思います。この本の内容は多岐に渡るため、なかから昭和三年に書かれた『ごろつきの話』という一編を取りあげます。
ごろつきと言えば、本の中で「無頼漢(ごろつき)などといえば、社会の瘤のようなものとしか考えておられぬ」と言うように、チンピラとか愚連隊とか悪いイメージがある言葉です。語源については「雷がごろごろ鳴るように威嚇して歩くから」だとか「石塊がごろごろしているような生活をしている者」という意味ではないかと述べられています。ローリングストーンズということでしょうか。
しかし折口信夫はごろつきが古い歴史を持ち、日本文化に大きな影響を持っていたのだと考えていました。折口信夫は、ごろつきは「うかれ人」という放浪者の集団から発生していると想像しています。そこから乞食や陰陽師や修験者が生まれ、また各地を放浪する中で地方の豪族に取り入って、あるときには豪族に成り代わるものまで出てきたとします。いわゆる下克上です。「武士」という言葉は宛字であり、「ぶし」の語源は「野ぶし」「山ぶし」にあるのではないかと考えました。
「本当か?」と思ってしまう面白い説ですが、折口信夫は直感的なひらめきで論を組み立てていく学者で、その説を鵜呑みにしてしまうことには注意が必要でもあります。ただ、その豊富な知識を背景とした鋭い直感力には、現在でも失われない価値や魅力があるように僕は思います。
実際に戦国時代の武士と野武士、山伏には同じような性質を持ち、あるときには見分けがつかなくなってしまう人たちもいました。『ごろつきの話』の中でも、徳阿弥という放浪する念仏聖が三河の松平家に婿入りし、松平・徳川家の祖となった話が触れられています。ただ、この話は徳阿弥が実は源氏の流れにある存在だという主張によって、自らの系譜を強化しようと作られた話であると考えられます。しかし、この話が捏造されたものであったとしても、そこに折口信夫が言うところのごろつきの一種である放浪者が介入していることが重要な点であると感じます。
『ごろつきの話』の結びには、折口信夫がごろつきに関して以下のように要約している箇所があります。「日本のごろつきには古い歴史がある。しかして、鎌倉以後は、これが山伏と結びつく<中略>彼らが根拠にしたのは山奥で、常には、舞や踊りを職業とし<中略>里に出てきたものの中には大名となり、その臣下となったようなものもあったが、ついに、その機を逸したものは、徳川の初期において人入れ家業を創始して、大名や旗本に対しても、横柄を振舞った。歌舞伎芝居は、彼らの間に生まれた芸術で、それには幸若舞が与って、大きな力を致している。」
このように折口信夫はごろつきと山伏が深い関わりのある存在であったのだと考えていました。山伏と芸術芸能の関わりに関心を持っている僕にとっても非常に心惹かれる記述です。
江戸時代に横柄を振舞ったというごろつきの中には博徒となるものもいたらしく、また、山伏が拠点にした山も博打と関わりがありました。江戸の庶民に広まっていた「大山詣り」という文化があり、現在の神奈川県にある大山にお詣りすることは、信仰という面以外でも、娯楽として大変人気があったようです。面白いところでは、江戸時代は盆と暮れに商売の決算がおこなわれていたため、その時期になると借金を抱えたものは、大山詣りに出て、山で博打を打って、勝てばその金で借金を返し、負ければ姿をくらますというようなこともあったのだそうです。
この大山のすぐ近くに塔ノ岳という山があります。この塔ノ岳でおこなわれていた祭りでは、昭和20年代ごろまで、賭場が開かれていたとのことです。現在ではもちろん犯罪として取り締まられていますが、その当時、祭りの日だけは警察も見て見ぬ振りをして盛大に行われていたのだそうです。
昭和期のエンターテイメントの背後にはごろつきが関わりを持っていたことは有名な話だと思います。現在の芸能界も一般社会とは異なる、独自のルールがあり、度々週刊誌やワイドショーを騒がせることがあります。そこには実は深い歴史的理由があるのだと『ごろつきの話』を読んでいると思わされるのでした。
坂本大三郎
千葉県出身、山形県西川町在住。古来より伝承されてきた生活の知恵や芸能の研究をライフワークとする山伏にして、イラスト・執筆・芸術表現など幅広く活動するアーティスト。主な著書に『山伏と僕』(リトルモア)、『山伏ノート』(技術評論社)、『山の神々』(A&F)がある。山形市七日町とんがりビル1Fにある雑貨とカフェの店「この山道を行きし人あり」のディレクションも担当。
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