【郡山/連載】「音楽のまちで、」vol.2 / ヒューマンビートボクサーと津軽三味線奏者の「音楽のまち」の創り方
地域の連載
「音楽のまちで、」は、郡山市で「音楽を愛し、音楽を楽しんでいる」方を紹介していくシリーズです。
音楽のまち‶楽都″として知られている郡山市では、戦後の生活が苦しい時期に、音楽を愛し、音楽を楽しむ文化が生まれました。そして現在では、合唱や合奏の全国大会において最高賞を受賞する常連校も多く、たくさんの学生が音楽に親しんだり、市内各所で音楽イベントが開催されたり、市民が音楽を愛する想いが息づいています。
今回は、郡山市を拠点に活動している「KAMiHiTOE(かみひとえ)」の2人、ヒューマンビートボクサー(※)のTATSUYA(たつや)さんと津軽三味線奏者の柴田雅人(しばた まさと)さんに話を伺いました。
※口や鼻からの発声(時に手を口に当てたり、舌も使う)による擬音により、レコードのスクラッチ音や、ベース音、リズムマシンのミキシングによる音色の加工や変化などを基本的に1人で全て再現し、様々な音楽を作り上げるテクニックを持つ人(参照:日本ヒューマンビートボックス協会WEBサイト)
一見全く違うものの様に見えるヒューマンビートボックスと津軽三味線。実際には共通点が多くその差が紙一重であることから名付けた「KAMiHiTOE」というユニット名には、「音楽と社会、言語や国境などのあらゆる境界線を自分たちの力で取り除いていきたい。」という2人の想いが込められています。
私が2人に出会ったきっかけは、郡山市が主催する文化芸術活動奨励事業「アートでエール。コンテスト」(2021年3月開催)でした。
このコンテストは、新型コロナウイルス感染拡大の影響により、アート活動の自粛や縮小を余儀なくされ、表現の場を失っているアーティストの方々の文化芸術活動継続を応援することを目的として開催されたもので、音楽やダンス、伝統芸能などのテーマに沿った動画作品が募集され、コンテスト専用YouTubeチャンネルで全世界に配信されました。
この作品は「アートでエール。コンテスト」募集締切日に、TATSUYAさんがこのコンテストの存在を知り、急遽柴田さんを呼び出し自宅で収録されたもの。2人がとても楽しそうに演奏するのが印象的です。
今回は、各界をリードする2人が、なぜコンビを組むことになったのか。また、なぜ郡山市へ移住し活動の拠点としたのか。その謎に迫っていきたいと思います。
私たちが肩を組むことに意味がある
2人の出会いは今から遡ること5年前。
2016年1月にTATSUYAさんの出身地でもある横浜市で開催された「三十路祭り1985-1986」において、30歳の型破りなパフォーマーの一員として2人がセッションしたことがきっかけ。その後、親交を深め、互いの音楽に対する姿勢を認め合い、活動を共にするようになっていきました。
TATSUYA:日本の伝統は形を変えられずに堅いまま無くなってしまうことが多いです。私たちが伝統ある津軽三味線を活かしながらパフォーマンスできているのは、時代にあった演奏スタイルを追求し柔軟に対応してくれる雅人のお陰です。ヒューマンビートボックスと津軽三味線が混ざり合いイノベーションを起こすことで、日本のスタイルや文化というものを伝えていけるんです。そこに2人でやっている大きな意味があります。
柴田:津軽三味線とヒューマンビートボックスが掛け合わさることによって、私たちの活動に興味や関心を持ってもらえる世代の幅が一気に広がります。それが我々の不思議な魅力ですね。企画でコラボレーションすることはあっても、我々の様に肩を組んでやっていこうとしているコンビは日本中探しても自分たち以外にはいないですね。
‶幸せだな″や‶面白い″と思える場所を創りたい
東日本大震災が発生するよりも前から、10年以上にわたって横浜市から郡山市に通い続け「ヒューマンビートボックスでみんなを笑顔に」をスローガンに、子どもたちへの指導を続けてきたTATSUYAさんにとって郡山市は第2の故郷と呼べるほどになっていました。そんな第2の故郷である郡山市が「音楽のまち」を謳っているのであれば、ヒューマンビートボックスの力で、地元の人はもちろん、出身地など関係なく沢山の人たちを巻き込んで郡山市からムーブメントを起こしたいと考えたTATSUYAさんは移住を決意しました。
TATSUYA:まちの形ってこうじゃなきゃいけないっていうのはないと思っていて、住んでいて幸せだなって思える環境が1番重要だと考えています。例えば、郡山市には防音機能が備わった住宅物件が極めて少なく、現状として音楽家にとっては決して生活しやすい環境とは言えないですが、私たちが音楽の力で音楽家が‶幸せだな″と思える環境に変えていくことはできると思っています。
柴田:東京での人間関係に疲れてしまって、郡山への移住を決断するまでは、津軽三味線奏者を辞めようと考えていたんです。そんな時にTATSUYAが声を掛けてくれたことは私にとって救いでした。TATSUYAとなら、互いを信じ、真っ直ぐに続けていけると思えました。それが郡山に移り住むことを決断できた大きな要因です。TATSUYAから「音楽のまちをヒューマンビートボックスと津軽三味線で盛り上げてみない?」と言われた時は、単純に‶面白い″と思いました。その結果、誘われてから1か月後には移住していました。
郡山だからこそ生み出せる音楽を伝えたい
柴田:移住して半月後、ドライブへ出掛けた際、猪苗代湖周辺で雪に自動車がはまって動けなくなってしまったのですが、近所の通りすがりのおじさんに助けてもらいました。そのおじさんにお礼がしたくて名前を尋ねましたが「困ったときはお互い様。名乗る程のことはしていない。」とそのまま帰っていきました。その時、私たちの役割は、東北地方や福島県、郡山市で、温かい人が沢山いるからこそ生まれる素敵な音楽を発信していくことだと改めて思いました。
TATSUYA:今後、郡山駅前広場で定期的にストリートジャズセッションの様な、その場でラッパーやダンサーなど様々なアーティストが乱入できるイベントの開催をプロジェクトとして行いたいです。アフターコロナを見据えて、演奏するだけではなく、表現する場を作っていくことも、私たちの役割だと考えています。大都市圏ではできない、ローカルだからこそできる活動を音楽の力を活かして音楽のまちから発信していきます。
2人の様な新しい力と、地元の伝統文化や人が持つ力を繋げていくことによって、どのようなイノベーションを起こしていくかが、楽しいまち‶楽都″を創り出す鍵になりそうです。
プロフィール
TATSUYA(たつや)
ヒューマンビートボクサー。1985年生まれ。神奈川県横浜市出身。2020年9月に郡山市へ移住。音楽とはほぼ無縁の少年時代を過ごすも、20歳の時にヒューマンビートボックスと出会い、独学で練習をスタート。史上初となる日本大会3連覇や日本人で初となる国際大会制覇を成し遂げるなど、日本のヒューマンビートボックス界を牽引する存在。また、24歳の若さで一般社団法人日本ヒューマンビートボックス協会を立ち上げた。国内でヒューマンビートボックスを本格的に広げた第一人者。音楽活動以外にはキャンプに興味があり、焚火から徐々に始めているとか。
柴田雅人(しばたまさと)
津軽三味線奏者。1985年生まれ。宮城県出身。2021年1月に郡山市へ移住。15歳の時に津軽三味線を始め、開始1年目に出場した大会で惨敗したことをきっかけに奮起。その翌年の全国大会での優勝を皮切りに、全国大会最高部門での優勝を果たすこと計13回と、津軽三味線奏者として史上最多の優勝回数を誇る。現在では、国内に留まらず、海外での活動経験から国外にも多くのファンがいる。顔から音が出ていると言われるほど表情豊かに、楽しそうに演奏するスタイルが大きな特徴。