【愛知県豊田市】過疎の山里で育むお金よりも大切なもの〜地域の拠点「つくラッセル」
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豊田市旭地区は面積の80%以上が森林という山里の小さなまち。過疎化、高齢化が著しいこの地区に家族とともに移住し、若い世代が地域の人たちと一緒に働き、集い、交流する場を作り続ける戸田友介さんを訪ねました。
――戸田さんが旭地区へ移住したのは「つくラッセル」を始められたのがきっかけですか。
「いえいえ。ここを始めたのは今から4年ほど前のことで、その時すでに僕はこちらに移り住んで8年ほど経っていました。実は移住を決めるまでには紆余曲折があったんです(笑)。結婚とほぼ同時にこちらに住み始めて、この地でいろいろやっていくことが増えてきてそろそろ拠点のような場所があるといいなと思い始めたときに、地元で140年も愛された旧築羽小学校が廃校になったまま空いているなということで、ここを使わせてもらうことになったんです。」
――移住されるまでにはどんな経緯があったのですか。
「そもそもは2009年に豊田市と東京大学、そして僕が学生時代に立ち上げた会社M-easyとで『日本再発信!若者よ田舎を目指そうプロジェクト』を行ったことがこの地域に関わったきっかけです。これは『地域おこし協力隊』に近いコンセプトで、豊田市独自の取り組みとして行われました。10名の若者を募集して地域の空き家で生活をしてもらい、遊休農地で農業をしながら地域のみなさんと一緒に将来ここで生き残っていく方法を考えるというものですが、当時、僕はまだ知多半島に住んでいたので、そこから通う形でプロジェクトを運営していたんですよ。」
――「田舎で農業」というコンセプトがまだ目新しかった頃ですね。
「そうですね。田舎暮らしや農業に興味を持ってくれて、当時50名を超える応募がありました。その多くが失業者や大学卒業後も就職先のない若者たち。ところがいざスタートしてみたら想像以上に運営が難しくてなかなかうまくいかないんですよ。そんな状況をなんとかしなくてはと僕自身、責任を感じて。結婚とほぼ同時に奥さんと一緒に旭地区へ移住することにしたんです。」
――難しかったのは主に地元のみなさんとの関係づくりですか。
「そうではなくて、むしろ地元の人たちは若者たちが来てくれたことを歓迎してくれて、すごく良くしてくれたんです。でもそれが逆にメンバーたちの焦りやプレッシャーになっていったんでしょうね。慣れない農業で思うように成果が出ないし、そもそも大の大人が知らない同士、ひとつ屋根の下で暮らすこともストレスだし、少しずつ歯車が噛み合わなくなっていったような感じでしたね。」
――そんな状況での移住。どのようにプロジェクトをまとめていったのですか。
「とくに何も(笑)。…というか、当時は何もしていないように見えたでしょうね。でも、それぞれのメンバーとよく一緒にご飯を食べながら話し合いながら関係性をほぐしていきました。また地域のみなさんとも月に一度の親睦会(飲み会)をしていったのも大事なことだったと思います。」
――そうしているうちに何かが変わった?
「そんなことを数ヶ月続けていて、年末の忘年会の席で地域の人が〝あんたらがいてくれるだけで嬉しい〟と言ってくれたんです。それがみんなの心に刺さったんですよ。ここ(旭地区)に来るまで、社会や学校では何か資格を持ってるとか、仕事の能力とかで評価されてきたのが、単純にありのままの存在を受け入れてくれた。それが心に響いたんでしょうね。」
――若者たちの意識にはどんな変化がありましたか。
「その時点でプロジェクトに残された時間はあと一年になっていました。ところが、うまくはいっていないけれど不思議とみんなプロジェクトから外れたいとは言わなかったんですよね。そこで、とりあえず何か稼ぎを生み出さなければという、それまでの思い込みをあらためて見直しました。よく考えてみたら決してそうでもなく、何より大事なのはここに住みたいと思う気持ちだと気づきました。」
――具体的な試みとしては何を?
「まずお米を作り始めました。こんな山間地で米作ってもお金にはならないけれど、ここで米を作って食いたい、そんな気持ちがみんなの中にも芽生え始めていて。実際作り始めるとここで暮らすことと米を作ることは同義だと気づくんです。」
――暮らしと米作りが同義?
「そう。自分の家、敷地、その外に広がる地域全体が〝自分ごと〟になるような感覚を実感できたというのでしょうかね。さらに、地元のおばあちゃんたちが懐かしそうに話す、かつての神社のお祭りや縁日の賑わいを復活させようと〝ご縁市〟を企画したり。そういう活動をブログなどで発信し、さらに交流が広がっていきました。」
――地域のみなさんの反応はどうでしたか。
「若者たちが地域に根ざして腹を括っていく姿に、地元の人たちの意識や接し方も変わっていくんです。住まいはどうする?とか、仕事はどうだ?とか気にかけてくれて。僕もその中でいろいろ仕事のことを考えつつ、いつしか基本的な生活には困らないくらいのことができるようになっていきました。」
――戸田さんの名刺にも、たくさんの肩書きがありますね。
「ここに挙げたのはほんの一部で、これまで100種類ぐらいのことをやりました。農業はもちろん、旅館の送迎バスの運転手とか…。」
――新聞の販売店も?
「そうなんですよ。販売店そのものを引き継いだんです。7年くらい前、この地域で昔から新聞店をやってこられた方が高齢で辞めるので引き継いでくれる人を探して欲しいと言われまして。1ヶ月ぐらい探したけど適任者がいないので、まあ、自分でやるかと(笑)。配達は移住者仲間にも声をかけ、地域の方達にも手伝ってもらってます。新聞店の仕事は昼間の業務も含めていろいろな世代の人たちが分担しながら働ける。始めてみて気づきましたが、これは非常に良かったですね。」
――ところで、つくラッセルのグラウンドに薪がたくさん積まれていますが、あれは?
「11年前から事務局を手伝っている、木の駅プロジェクトというのがありまして、そこから派生して薪作りと配達の仕事を請け負っているんです。地域の方が出してくださった木材を、私たちも一緒に割って薪にして、移住者仲間を中心に名古屋など都市部への配達に行っています。木の駅プロジェクトでは木材と交換で地域で使えるモリ券という地域通貨も発行しているんですよ。やはり広いスペースがあることでいろいろなことが生まれてきているという感じですね。」
――いろいろなことが始まり、順調に進む中で「つくラッセル」ができたわけですね。
「そうなんです。でもここを借りる際には、最初から明確なビジョンを立てず、ぼんやりとしたプレゼンをしました(笑)。これからも時代や地域の状況の流れに合わせて柔軟に変化したり対応できる場所であることが大事だと思ったので、あえてそうしたんですよ。」
――これから「つくラッセル」を中心に地域がどのようになっていくといいと思いますか。
「つくラッセルは多様な人たちが重なり合う拠点です。これまでもたくさんの小さな仕事が生まれてきました。過疎が進んでいくということは、人手が足りないということ。新しい工夫をして組み替えながら仕事を作っていく。そしてまちの外へ働きにいくのではなく、地域の中で働くことによって人と人がふんだんにコミュニケーションをとっていける。それがお互いに関心を持ってコミュニティを作っていくことに繋がっていくと思うのです。そのための拠点としての役割を果たしていけたらいいですね。」
過疎という深刻な課題を抱えながらも、地の人と外からやってきた人とが仲良く生き生きと田舎暮らしを楽しむ秘訣をうかがうと、「何はともあれ一緒に飯を食べさえすればうまくいくんですよ!」と豪快に答えてくれた戸田さん。旭地区の人たちと移住者たちの活気ある日々の暮らしぶりが伝わってくるようでした。
名称 | つくラッセル |
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URL | |
住所 | 愛知県豊田市旭八幡町堂山432-3 |