山形でブランドを立ち上げる
ニット作家・田尾寛子さん(前編)
山形で暮らしていると、若くして独立した20〜30代の人たちとの出会いがあります。
ニット作家の田尾寛子さんも、そのうちの一人。九州、東京、海外を経て、山形へ移住し、2016年にニットブランド〈KOU〉を立ち上げました。
どこまでも前向きに「編むこと」にチャレンジする田尾さん。作業場も備えた自宅にお邪魔して、活動の場として山形を選んだ理由、そしてブランドを立ち上げるまでのストーリーをうかがいました。
ニットに魅せられて、山形へ
田尾さん:生まれは佐賀県。二歳まで父の仕事の都合でアメリカで暮らし、その後は高校まで長崎の港町で育ちました。
服飾に興味を持ったきっかけは、高校の体育祭での衣装づくりでした。服を解体して構造を研究するのが楽しくて、すっかりハマってしまったんです。「勉強するならトップの環境で学べ」という親からのすすめで、卒業後は東京の文化服装学院に入りました。
専門コースではニット科に入り、修了後にデザイン科へ再入し卒業。ずっと海外へ出てみたくて、その後1年間イタリアへ勉強に行きました。
帰国後は東京へ戻り、同級生からの声がけで古着屋に勤めました。オリジナルのアパレルをつくったり、古着をお直したり。接客も担当したので、自分のお客さんをもつ感覚や、人と会話する楽しさは、その古着屋で身につけました。
山形には、繊維企業への転職で来ました。東京で働いているうちに、どうしてもニットの世界へ行きたくなったんです。
保守的なニット業界の常識を覆す斬新さがあり、学生時代からの憧れのブランドでした。
入社できて本当に嬉しかったのですが、配属先では来る日も来る日もひたすらにミシン。やりたかった企画への道は果てしなく、ロボットのように無思考で手を動かす毎日。
なかなか部署外には声が届かず、自分を見失ってしまいそうで。新しいことを始めてみようと退社しました。
九州人からみた山形の魅力
前向きな気持ちで決断したものの、退社後は会社という組織だからやれること、その大きさを思い知らされて。自分一人でなにができるんだろうか…と、途方にくれてしまいました。
仕事の目処は一切つかぬまま、知り合いが住むシェアハウスに空きが出たと聞いて、ひとまず隣町から山形市へ移ってきました。
ここでは、人に恵まれたことが大きかったです。シェアハウスつながりの人には県外出身者が多く、他所から来たわたしを気にかけてくれて「ここへ行ってみて。あれを試してみて」と連れ出して、山形のいいところをたくさんプレゼンしてくれました。自分でも車を買ったことで、一気に世界が広がりました。
山形へ引っ越してから、暮らしも大きく変わりました。
地元の長崎は、海と山に挟まれた海岸沿いの西洋文化が香る土地。気候は穏やかで、人はフランクでオープンで楽観的で、南独特のゆったりした空気感があって。山形とはある意味逆の環境です。
だからこそ、山形の良さがよくわかります。きっと東北は「冬を越えること」が大きな意味を持ちますよね。
冬はじっと家にこもって、自分を育てる時期。制作もすごく捗ります。冬に備える文化や春を待ち遠しく思う気持ちは、長崎にいた頃はありませんでした。山形の抑揚ある気候と暮らしは魅力的だと感じます。
マイペースにものづくりを
東京に戻ろうとは思いませんでした。東京にはすべてがあるから、あえて自分がそこでやる必要性を感じなかったし、ただ純粋に落ち着いた環境でものづくりがしたかった。
そう思ったのも、この土地柄に影響を受けたからです。山形には個人経営の店が多い印象で、魅力的な店主さんがこじんまりと淡々と日々営業している。
ここなら等身大の自分で、マイペースに創作活動ができそうだ、という直感がありました。
車を買った中古車屋さんからのご好意で、自宅とは別に、物置小屋を借りて作業場を確保することができました。
独立した後は、とにかく食べていかなきゃいけない。
近所の古着屋の〈サニーコレクション〉のオーナーさんにお客さんを紹介していただき、お直し全般、ペットの服やお坊さんの袈裟、イベント衣装の制作など、初年度はとにかく自分ができることなら、なんでもがむしゃらにやっていて。
最近になってようやく自分の作品づくりに集中できるようになりました。
後編へ続く。