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日本の近代建築の傑作「旧済生館本館」/建築で巡るやまがた(1)

山形市内で一番好きな建築は何かと聞かれたら、真っ先に挙げるのがこの「旧済生館本館」です。今は「山形市郷土館」として、およそ50年前に霞城公園の現在地に移築復元されています。元々は明治の初めごろ、山形市の繁華街・七日町に県立病院として建てられたものです。

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かつて街中に建っていたが いまは霞城の森の中にひっそりと佇んでいる

国の重要文化財にも指定されている「日本遺産」とも言うべき建築ですが、まず目に付くのが非常にユニークなその形。正面から見るだけではよくわかりませんが、1階は正面の小さな八角形と奥に大きな正十四角形がくっついたプラン、2階は大きな正十六角形に小さな四角い階段室が張り付いたプラン、3階は正八角形と、階ごとに異なる形が積み重なっています。

その見た目から「三層楼」と呼ばれていますが、2階以上のバルコニーの数からもわかるように、2階と3階の間に中3階のスペースがあるため、実際には4層の建物という複雑さも持ち合わせています。

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正面では多角形が塔状に積み上がるほか、1階ではさらに大きな多角形がひろがる

そして忘れてはいけないのは、この建物が明治初期の日本で生み出された「擬洋風建築」の代表的な事例だということ。擬洋風建築とは文字通り、西洋の様式建築が本格的に取り入れられるようになる前の日本の大工が見よう見まねで洋風建築に擬えた時代の建物ですが、意匠上至るところに洋風の要素を取り入れたあとや和風の名残、それらの融和を図った創意工夫の跡が見られます。

外壁の下見板貼りは、元々イギリスの田舎など一部地域に使われていたものが開拓期のアメリカで広まったもの。東大名誉教授の藤森照信氏の『日本の近代建築(上)』では、擬洋風建築の大きな分類として「木骨石造系」「漆喰系」につづく第3の「下見板系」の一群が存在し、他県に比べても不思議なほど山形には下見板張りの建物が特に多く、その下見板系擬洋風の代表格として旧済生館本館が紹介されています。

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下見板貼りの外壁と上げ下げ窓、両開きの鎧戸は当時としては最新鋭のデザインだった

同著によると、明治初期の山形県内でこうした下見板系擬洋風が数多く建てられた背景には初代県令だった三島通庸の存在が大きかったといい、当時の北海道→鶴岡→山形と下見板貼りが伝わった経緯も推察されています。

旧済生館本館の外壁の大半は下見板貼りですが、1階の玄関周りのみ漆喰塗りとなっています。漆喰塗りはお城や蔵などそれまでの日本にもあったものですが、ここではそれを守るようにドリス式と呼ばれる古代ギリシャ建築の列柱様式の円柱が建ち並ぶ石敷きのベランダがつくられています。この「ベランダ」もまた、イギリス植民地時代のインドなどに見られるコロニアル様式を取り入れたものです。

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ベランダに敷かれた切石は、山形市新山産のものといわれる

様々な「洋風」がミックスされる中で、和風の名残も随所に見られます。その一つが1階屋根の桟瓦葺きで、赤い釉薬が施されているのがわかります。山形市内では「紅の蔵」として使われている旧長谷川家の店蔵などにも赤い桟瓦を見ることができます。またバルコニーを支える持送りとして、唐草彫刻が見えますが、これもまた日本の寺社仏閣に通じるものがあります。建物正面の四層部分を間近で見上げるとお寺の鐘楼や三重塔のようにも見えます。

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赤い桟瓦は和風建築にもみられるもの。唐草彫刻や欄間の波模様は、西洋建築に対するせめてもの抵抗のようにも見える
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下から見上げると鐘楼や多重塔、はたまたお城のようにも見える

そして、この建物の最大の特徴はもう一つ。1階の本体部分が、真ん中に中庭を設けたドーナツ型になっているということ。空撮写真は、宝石の付いた指輪のようにも見えます。正十四角形の環状に半屋外の回廊がまわり、回廊沿いに台形の部屋(かつては診察室や待合室など)が並ぶ形です。現代でこそ有名なドーナツ型の幼稚園や社屋などが見られますが、明治の初めしかも病院建築でこうした形を実現させたのは非常に革新的なことだったと思います。

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空から見た旧済生館本館(山形市教育委員会提供)
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回廊の欄間や手すりに伝統工芸「山形仏壇」や「こけし」の技術が見え隠れする

内部は壁の多くが漆喰塗り、床はリノリウム(亜麻仁油由来の床材)が使われ、天井は漆喰塗りや紙貼りとなっています。上階へは正面の四層部分にある階段を上っていきますが、1階から2階までの動線が直線階段+バルコニー+らせん階段が組み合わさった変わったアプローチで飽きさせません。階段には、山形には多く自生するケヤキ材が使われていて、特にらせん階段部分は和洋折衷の重厚さが伝わってきます。

日本の近代建築の傑作「旧済生館本館」/建築で巡るやまがた(1)

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 2階の講堂は正十六角形の平面。漆喰の壁と紙貼りの天井が空間を柔らかく包んでいます。現在は郷土資料の展示スペースとなっていますが、ちょっとしたコンサートや催しをするのにちょうど良い大きさです。部屋の中央には、ときの太政大臣・三条実美が揮毫した際の額が飾られています。3階、4階部分はふだんは非公開で入ることはできませんが、時折特別公開されることがあるようなので、市のホームページをチェックしてみるといいかもしれません。

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講堂内には一本の柱も立っておらず、この上に3階・4階が乗る。 当時日本に入ってきたばかりのトラス構造や日本古来の木造技術が共に使われている

この革新的な建物は誰が設計したのか、とても興味があるところです。県の記録などによると、県の病院建築掛・筒井明俊が明治10年に病院長とともに上京し東京・横浜方面の先進的な病院建築を視察し専門家の助言を受けたのち平面図を作成したとされています。ただ筒井は元々酒田の神職の家に育ち、江戸で儒学・医学を修め戊辰戦争では軍医をつとめて、維新後は県の職員としてキャリアを積み上げてきた人。現在私たちが設計の際に描くような図面一式を作成したというよりは、病院建設にかかわる県の担当者として基本プランをまとめたという方がしっくりきそうです。

筒井たちが視察で訪れた施設の一つに横浜のイギリス海軍病院があり、中央の運動場を囲むようなCの字の形が、旧済生館のドーナツ型のモチーフになったと推察されています。

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山形市郷土館のパンフレットに描かれた図面

明治10年からのほんの12年の間に、県令・三島通庸は初代山形県庁をはじめとする官庁街を、万日河原とよばれていた荒れ地だった場所に一気に創り上げています。この時つくられた県庁舎、県師範学校、警察署などはいずれも屋根は桟瓦葺き、外壁は下見板貼り、上げ下げ窓にベランダといった共通の意匠となっていて、それらの後に続いて生まれた旧済生館本館は、その集大成のようにも見えます。

三島は「土木県令」の異名をもつほど強く土木事業を推し進めた人ですが、この「土木」には現在の道路・橋梁整備といったもの以外に公共施設整備などの「建築」事業も含まれているかと思われます。

前職の鶴岡県令時代の朝暘学校を皮切りに、県内各地で数多くの公共施設の建設を命じた三島は無類の建築好きだったともいわれます。彼の建設事業における右腕的な存在として、同じ薩摩出身の原口祐之が知られています。原口の生家は薩摩藩の作事奉行(建物の造営・修理を行う役職)をつとめており、自身もまたその腕を磨き明治政府に仕えてからは当時東京府参事の三島とともに銀座煉瓦街の建設に携わって、その縁で三島に同行して山形に来ています。

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同時期に建った他の公共施設と意匠は比較的統一されているものの、この特異な形状は三島の革新的な意思の表れに思える

旧済生館本館の建設にあたって、原口は県の職員として建設工事の監督(棟梁)を任され、山形の宮大工を指揮しながら多角形の多層建築という高難度の工事を完成させました。筒井の視察とは別に三島本人も東京に視察・助言を受けに行っているなど、三島の強い意向もうかがい知れますが、事務局としての筒井の働きと建設実務的な原口のサポート、そして山形の宮大工の高い技術力が加わってできたこの建物。設計者・三島通庸と言っても言い過ぎではないように思います。

三島がつくり上げた一大官庁街は、明治44年の市北大火でほとんど焼失してしまいますが、風上だった旧済生館本館は奇跡的に焼失を免れました。かつての官庁街の様子は、三島が日本初の洋画家・高橋由一に描かせた「山形市街図」や県の御用写真師・菊池新学に撮らせた写真などで現代に伝えられています。その後第二次世界大戦のときには三層部分が解体されたり、増改築を経て現代まで残りますが、市立病院となった済生館の建て替えにあわせて、七日町を離れ霞城公園への移築復元の流れとなり現在の姿となっています。

旧済生館本館は、単に擬洋風建築の傑作というだけにとどまらず、文明開化の象徴として三島通庸が創り上げた近代都市の貴重な証言者であり、山形市の一つの時代を刻んだ記念碑といえます。

日本の近代建築の傑作「旧済生館本館」/建築で巡るやまがた(1)
突き当たりがかつて旧済生館本館が建っていた場所。いまは市立病院前の親水公園の一部になっている

 

(参考文献)
・『日本の近代建築(上)幕末・明治篇―』 藤森照信著
・『路上探検隊 奥の細道をゆく』 赤瀬川原平ほか著
・『山形県史 資料編2』 山形県編
・『山形県会史全』 山形県議会編

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名称

山形市郷土館(国指定重要文化財・旧済生館本館)

URL

https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/kankokyaku/sub3/bunkazai/97270yamagatasikyoudokan.html

住所

山形県山形市霞城町1-1(霞城公園内)

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