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地場の石をつかった百年建築「旧県庁舎及び県会議事堂」/建築で巡るやまがた(2)

山形ビエンナーレの主会場として使われている「文翔館」。山形県旧県庁舎と県会議事堂の二代目だったものですが、20年ほど前に長期間の復原工事が完了し現在は「山形県郷土館」として一般に開かれています。以前は山形市の観光名所というと山寺や蔵王など郊外の印象が強かったと思うのですが、大通りの突き当たりにどんと構える文翔館は、いまや街なか観光にとっても欠かすことのできない大事なランドマークになっています。

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七日町大通りの突き当たり、花笠祭りパレードの最終地点にもなっている

建てられたのは今から100年以上前の大正5年(1916)。前回触れた初代県令・三島通庸が明治10~12年にかけて創り上げた初代県庁舎をはじめとする一大官庁街は、その約30年後の明治44年(1911)山形市北大火で道路や町割りを残してほとんどの建物が焼失してしまいました。その後初代県庁舎の跡地に再建されたのが、現在まで残るレンガ造の二代目県庁舎と県会議事堂です。前回の「旧済生館本館」と同じく、国の重要文化財に指定されています。

前庭広場から建物正面をみると一見2階建てのようにも見えますが、実は3階建て。元々この場所は江戸時代のはじめまで馬見ヶ崎川の旧河道があり、流路が北方へ移されてからも明治のはじめまで万日河原という荒れ地となっていたところです。そのため敷地が北側・西側に向かって下がっていて、段差解消の結果正面から見ると1階が半地下のようになっています。正面玄関から屋内に入るときに何段か階段を上がるかと思いますが、入ったフロアがすでに2階となります。

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建物北側から見るとふつうに3階建てだとわかる

この建物は「英国近世復興様式」を基調にしているといわれます。明治の中頃から誕生しはじめた日本人建築家たちは当時、目下ヨーロッパ建築の習得を志していて、歴史主義建築とよばれる過去の様式をモデルとした洋風建築づくりに取り組んでいました。

ヨーロッパの中でも主にイギリス、フランス、ドイツといった三国がその参考の中心になっていました。「日本近代建築の父」と呼ばれた英国人建築家ジョサイア・コンドルやその教え子たちの存在によって、特にイギリス系の様式に学ぶ人たちが圧倒的多数を占めていたようです。

大正のはじめにできたこの二代目県庁舎は、歴史主義建築としてとても成熟した時期のものといえるかもしれません。同時期にできたものとしては、コンドルの教え子で工部大学校(のちの東大工学部)教授もつとめた辰野金吾設計の東京駅丸の内駅舎(1914年創建)が有名です。

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装飾が華美になりすぎず、堅実で品のある感じがイギリス的ともいえる

構造はレンガ造ですが、外壁には一面花崗岩を使っているので、石造のようにも見えます。計画当初は石造だったものが予算超過で県会からの反対などもありレンガ造+石貼りに変更されたようです。

この花崗岩は、南陽市の旧中川村釜渡戸・旧金山村付近で採掘されたもの。当初山形市東沢の石材を使う予定だったところ、亀裂が入り使えないということで施工者が各地を探してようやく見つけたものだとか。この石の採掘と搬出だけでも1年かかったうえ、山形の雪と寒さで冬期間の石工事がまったくできず残された工事期間も短かったようで、完成に至るまでには相当に困難を極めたことがうかがい知れます。

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同じ石材を上下段で異なる表面仕上げとすることで、壁の表情を変えている

屋根は、お隣宮城県の石巻市雄勝産のスレート葺き。雄勝石は黒色で光沢があり耐久性にすぐれた硬質の石材で、江戸時代から硯(すずり)などの工芸品には使われていたようですが、19世紀後半から20世紀初頭にかけてヨーロッパでスレート屋根が流行したのに合わせて日本でもその時期に屋根材として使われだしたと考えられます。 小屋裏や床下などの木下地に使われた木材は、スギ材が西川町の旧本道寺村のもの、マツ材が新庄市のものといわれています。

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日本で二番目に古い時計塔。現在も山形市の時計職人の手で5日に1回巻き上げている
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宮城県北東部の地域にある近代以降の民家では今もスレート葺きのものが多い

庁舎の平面はロの字型のオーソドックスなもので、中庭を囲むように廊下が回っています。ここではじめて、この建物がレンガ造だということがわかりますが、外観の石貼りの端正な表情との明らかな違いに驚く人も多いのではないかと思います。

中庭に面した外壁は、花崗岩による石貼りや装飾などがほとんど見られず、レンガがそのまま現しとなっています。何故外回りのように石を貼らなかったのか、あくまで個人の推測の域を出ませんが、限られた工期・難航した石の調達・二割近く予算超過した工事費などの理由によって、貼りたくても貼れなかったのではないかとつい考えてしまいます。

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中庭に面する外壁のほとんどがレンガ仕上げで、石材は窓の上下と壁の見切りくらいしかない

内部の壁は様々な壁紙貼りが見られ、床はリノリウムのほか寄木貼りや絨毯敷き、天井は漆喰塗りとなっています。特筆すべきは、3階の正庁(現在でいう講堂)や知事室などで見られる天井の彫刻付き漆喰塗りと床の寄木貼りで、漆喰天井は山形の左官職人の手により花や果物などのモチーフを漆喰で立体的な飾りとしてつくりだしたもの、寄木の床は県内産のケヤキなど様々な木材を使って、組み合わせられています。

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現在見られる天井の漆喰飾りは、復原工事の際に山形県内の左官職人によって再びつくり出された
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部屋によって床の木材の並べ方が異なる。木材の色の違いで多彩な表現が生まれる

西隣に建つ県会議事堂もまた、内外装とも県庁舎と同じような材料が使われています。外壁の石貼りは柱型や建物角の部分に施され、所々レンガの赤色が出ているので県庁舎よりもすこし華やかな印象も与えてくれます。これは、この議事堂が建設当初から議会のないときは公会堂(公衆の集会のための施設)として講演会や演奏会などにも使えるよう考えられていたことも関係があるように思えます。議員席を固定しない平土間ホールのようなつくりだったおかげで、100年経った現在でもコンサートなどの様々なイベントを開催できる場所になっています。

地場の石をつかった百年建築「旧県庁舎及び県会議事堂」/建築で巡るやまがた(2)
石貼りの中に赤レンガの色がアクセントになっている
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ヴォールト天井の中央部分は、ガラス戸のトップライトになっている

10年もの長きにわたる復原工事の際に、県庁舎・県会議事堂ともに耐震補強が施されています。レンガ壁に鉄筋を挿入したり屋根裏に鉄骨の水平トラスを取り付けるなど、パッと見ではわからないところばかりですが、議事堂の外付けバットレス補強は全国的に見ても非常にユニークといえるものです。

議場ホールの内部空間の姿をなるべく当時のものに留めるとともに、外部も補強部分を明確にし極力本体への接地面を小さくし装飾性をそぎ落としたものにした結果、シンプルな鉄骨のバットレスを外付けした形になっています。

地場の石をつかった百年建築「旧県庁舎及び県会議事堂」/建築で巡るやまがた(2)
重量感の軽減のためバットレスの先端にかけてやや絞った形状になっている

この二代目県庁舎と県会議事堂の建築に際して、県が顧問に任命したのが米沢出身の建築家・中條(ちゅうじょう)精一郎です。その父・政恒は元米沢藩士で、最後の藩主・上杉茂憲の学友にも選ばれた人物。精一郎もまた東大建築学科を卒業し文部省に入ったあと茂憲の子・憲章に随行してイギリス・ケンブリッジ大学に4年ほど留学しています。

帰国後また文部省に入るもののすぐ辞め、大学の先輩にあたる年長の曾禰(そね)達蔵と明治41年(1908)、のちに戦前最大の設計事務所といわれる曾禰・中條建築事務所を立ち上げることになります。このとき、中條精一郎40歳、辰野金吾とともにコンドルに学んだ曾禰達蔵56歳。中條が県から県庁舎の建築顧問を委嘱されたのは事務所設立からわずか3年後の明治44年(1911)、山形市北大火が起こった年の11月になります。

中條は同時期に吉池医院(山形市十日町)の設計を行うほか、大正10~12年にかけて県庁舎にほど近くに山形貯蓄銀行本店や山形銀行本店を手がけますが、官庁街にあった二つの銀行建物は残念ながら現在残っていません。

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中條が大正元年(1912)に手がけた山形市十日町の吉池小児科医院は健在

建築顧問の中條のほか、設計者としては山形県工師・田原新之助が知られていますが、当時の新聞等ではもう一人、山形県技師・西村慥爾(ぞうじ)の名が記されています。西村は明治42年(1909)に東大建築学科を卒業し大阪府技手、山形県技師のあと高知県技師となり山形県庁舎、高知県庁舎、高知県議事堂、高知県官舎等の設計・監督に従事、大正7年(1918)35歳で亡くなっています。山形県庁舎落成時の山形新聞には元県技師として紹介されているので、完成を見届ける前に高知に移っていたことになります。

田原新之助は東京・品川出身。中條や西村が大学出の工学士だったのに対し、田原は大学には入っておらず、14歳でコンドルの内弟子となりその傍ら三菱合資会社の建築部でも働き、当時三菱に在籍していた曾禰達蔵からも薫陶を受けていたようです。コンドルの事務所では彼の助手として数々の設計・監督に従事し、曾禰と中條が事務所を立ち上げたのと同じ年に田原も自らの事務所を品川に構えています。

田原が山形県工師として招かれたのは大正2年(1913)2月、その2ヶ月後には県庁舎の建設工事がスタートします。こうした流れからすると、顧問の中條のもと、先に県技師になっていた西村が設計図を描いていて、予算超過により構造等の変更を余儀なくされるなど着工にあたって相当な困難が予見されていたところに、若くしてコンドルや曾禰の元での数多くの現場経験や設計技量をもつ優秀な田原が招聘されたのではと考えられます。

地場の石をつかった百年建築「旧県庁舎及び県会議事堂」/建築で巡るやまがた(2)
2階東の展示室には、寄贈された田原新之助ゆかりの品々が展示されている

先述の通り、石工事をはじめ職工のストライキが起きたり現場における田原の苦労は想像以上だったと思われますが、田原の血のにじむような努力の甲斐もあって着工から3年後の大正5年(1916)6月、ついに二代目県庁舎と県会議事堂が無事竣工を迎えます。田原は同時に山形電気株式会社や奥羽連合共進会々場の計画にもかかわっていたようですが、県庁舎完成からわずか2ヶ月後に40歳の若さで病により亡くなってしまいます。

初代県庁舎が短命だったのに対し、耐火のレンガ造でつくられた二代目県庁舎は、保存修理工事や耐震補強を経て100年の時を超えて山形のメインストリートの真っ正面に立ち続けています。「山形県郷土館」として資料展示だけでなく、議場ホールをはじめ、前庭広場、貸しギャラリーでは多くの県民の文化活動の場に活用され、さまざまな映画のロケ地にもなり、2階にはカフェも併設されています。

敷地まわりには最近、ブックカフェや洋菓子店、コーヒーショップなどこだわりのお店も増えてきたように感じます。こうした旧県庁舎をはじめとするエリア一帯の活用のされ方や山形ビエンナーレによる賑わいなど、100年後もこうして建物が生き続けているのをもし田原が見たら、現場担当者として感慨もひとしおではないでしょうか。

地場の石をつかった百年建築「旧県庁舎及び県会議事堂」/建築で巡るやまがた(2)
中條や田原が設計したバルコニーから、三島通庸がつくりあげた官庁街の名残を眺められる

(参考文献)
・『日本の近代建築(上)―幕末・明治篇―』 藤森照信著
・『日本の近代建築(下)―大正・昭和篇―』 藤森照信著
・『日本の建築 [明治大正昭和] 全一〇巻 7ブルジョワジーの装飾』石田潤一郎著
・山形新聞 大正5年6月15日付
・『山形銀行百年史』山形銀行発行
・『建築雑誌 1916年6月号』 一般社団法人日本建築学会発行
・『住宅建築 2017年2月号』 建築資料研究社発行

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建築家・井上貴詞インタビュー記事はこちら

名称

山形県郷土館「文翔館」

URL

https://www.gakushubunka.jp/bunsyokan/

住所

山形市旅篭町3丁目4番51号

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