最上義光の墓を訪ねて【光禅寺】/お寺とお墓の山形散歩 vol.1
「お寺とお墓の山形散歩」第1回は、曹洞宗天瀧山光禅寺です。
戦国乱世の時代から江戸のはじまりにかけて活躍し、一時期は置賜を除く山形全土を統一。その後は内政に力を入れ山形の土台を作ったのが最上義光であり、その墓所を守るのが光禅寺です。光禅寺は、当時の山形城の門外、複数ある三ノ丸城壁の出入口のうち、七日町口より一番近い場所で開山しました。現在の七日町長源寺のある場所です。
もっとも、当時の敷地は、南は御殿堰、北東の角が花小路の入り口、西は現在の商工会議所の裏通りまでと、「長源寺通り」と「シネマ通り」の四辻を「おへそ」にした広大な敷地だったようです。光禅寺の現在の場所は鉄砲町。山形中央高校のとなりに位置します。
義光公の墓と
伊東忠太の意外な関係
住光禅寺職の最上さんを訪ね、いろいろとおはなしをうかがいました。お聞きして驚いたのが、東洋の魂を西洋の理論に吹き込んだ近代建築の祖であり、「建築」という日本語を創った、米沢出身の伊東忠太博士のエピソードでした。
光禅寺には最上家の家紋「丸に二つ引き」が左右に大きく入った山門がありますが、これが伊東忠太の手によるものだというのです。またその名は、大正二年に最上義光公没後300年の区切りに行われた墓所整備にあたっての寄進者名簿にも見ることができ、墓のデザインにも関わっているというはなしなのです。
さて、早速、山門を入り、桜の木に囲まれた参道を抜け(桜のシーズンの素晴らしさ!)正面の本堂を右手に、渡り廊下の下をくぐると、墓地に入ります。程なく真っ正面に最上家三代の墓所があります。
いわゆる「五輪塔」の墓碑です。オーソドックスなフォルムではありますが、全体的にわずかに横に広がり、ボトムに重心を置く安定感のある地輪、水輪、火輪のつらなり。その上に、丸みを帯びて一体化した風輪/空輪が絶妙なバランスで有る様子。そして、左右に配された三角の笠のシンプルな墓前灯篭との一体感。全体を見るにつけ、文化折衷のバランスを極めた厳かで存在感のある様。うーむ、確かに伊東忠太のそれを思わせるような気がします。
身近な寺に
ひっそり眠る山形の歴史
「山形人にとって、とても重要なお墓だから若い人にも知っておいてもらいたいな」。義光公が病気で亡くなった際にそのあとを追って殉死した四名の家臣の墓碑について教えてくれた近所のおじさんの言葉です。今日のように、義光公のお墓をふらっと見に来るそうです。
光禅寺さんには、この他にもいくつかの見所があります。
「光禅寺庭園」は、平安の古来から信仰の対象だった瀧山を借景にした(といっても現在は中央高の建物と巨木に隠れていますが….汗)市指定名勝のお庭。さらに、春には参道のさくらがじつに見事。さくらにからだを包まれるような独特の感覚を味わえます。
また、毎月第1第2日曜の6:30から本堂にて開催される坐禅会もぜひ体験いただきたいですね。
これからシリーズで山形の寺と墓を紹介してまいりますが、ふつうみなさんがなかなか入ることがないであろう身近なお寺がこんな風に開かれていて、こんなに歴史が詰まっているということを知ってもらえたら嬉しく思います。さらには、お寺の歴史を通して、山形らしさの謎が少しずつあきらかになっていって、最終的には、なんとなく山形がわかったぞと、なったら良いなあと思います。
次回、シリーズ第2回は、最上氏改易のあと山形城に入った鳥居忠政公の菩提寺、冒頭でもご紹介した七日町の長源寺さんです。お楽しみに。
この記事は、終活Webサイト「ハカライフ」のコンテンツ「寺、マイル」をもとに制作されています。こちらもぜひご覧ください。