江戸・上方文化の共存とエコハウスとしての座敷蔵「マルタニ長谷川家旧家屋及び土蔵」/ 建築で巡るやまがた(4)
山形市は全国的に見ても指折りの「蔵のまち」。東北では奥州市江刺区や喜多方市が蔵を活かしたまちづくりで有名ですが、山形市がもつ蔵文化も特異といえます。
その蔵文化が一目で見られる場所が、「山形まるごと館 紅の蔵」です。ここはかつて紅花商人だったマルタニ長谷川家の旧家屋と土蔵群を市が借り受け観光施設としたもので、ちょうど9年前にオープンしました。前回の「山形まなび館」と同じく「三つの新名所づくり」の一つに数えられます。この建物は2010年度にグッドデザイン賞を受賞しています。
この旧家屋や土蔵が建てられたのは、この辺り一帯が焼け野原になった市南大火から8年後の1902(明治35)年とされています。その後昭和初期に表の店蔵が移動したり裏の荷蔵がつくられたりした経緯があるようです。当時は東側の職人町通りまで東西に相当長い敷地でしたが、10年ほど前の区画整理事業で敷地の真ん中に道路が通ることとなり、東側に建っていた4棟の荷蔵やその他の建物群は取り壊され更地となりました(現在の産直施設のあるところ)。
現在残るのは、国道112号線(旧羽州街道)沿いに建つ店蔵と仏蔵、それらと連続した主屋、座敷蔵、そして区画道路にかかるために向きを90°回転し曳家された2棟の荷蔵になります。 すべての建物が2階建てですが、店蔵にのみ倉庫として使われる地下階も存在します。これは昭和初期の改造の際に鉄筋コンクリート造でつくられたものと推測されます。
江戸時代後期に歌川広重によって描かれた「湯殿山道中略図」では、当時の山形城下の七日町や三日町角の様子がわかりますが、通りに面した町屋の建物と軒を並べる店蔵や、敷地奥の座敷蔵や荷蔵とみられる蔵の姿が確認できます。
明治に入り、前回まで紹介してきたような旧済生館や旧県庁など公共の建物は軒並み西洋化してきた一方で、民間の多くの商家は戦前までは比較的町屋や土蔵造りといった和風の建物を採用していました。特に明治時代に二度の大火に見舞われた山形では防火建築としても蔵造りの建物が重宝されたように思えます。
マルタニ長谷川家の建物は、通りに面する店蔵と仏蔵の屋根のみ赤い釉薬を使った桟瓦が使われ、他は板金で葺かれています。こうした赤い瓦は近くの丸太中村近江屋、寝装野村屋のほか、旧済生館や旧山形師範学校でも見られます。
外壁は白い漆喰塗りで、通りに面して建っていれば一際目立つ存在であったに違いありません。ここでは2階の腰壁部分になまこ壁のデザインも取り入れられています。
長谷川家の敷地は間口が一般的な商家よりもかなり広いものの、奥に長い短冊状の敷地形状と建物配置は他のそれと多くの共通点があります。まず表の通りに面して店蔵もしくは町屋が建ちそれに連続して主屋がつながります。さらに座敷蔵もしくは仏蔵とも連結します。その後ろに中庭などを介して荷蔵等があり最後尾に畑などがひろがります。長谷川家の旧家屋や土蔵も、そのような配置計画でつくられています。
内装仕上げは、棟ごとに趣が大きく異なります。店蔵は天井も高く、創建当時の格天井や二階への階段、床のタイル貼りなどが擬洋風建築のようにも感じられます。一転、主屋や座敷蔵は家紋入りの建具金物や漆喰彫刻なども見受けられ、畳の座敷が設けられています。現在はそれぞれイタリアンレストランとそば屋が入り、既存の内装を活かして営業しています。
残された2棟の荷蔵を見ると、荷物のための蔵にしてはずいぶんと立派な松の棟木や梁に圧倒されます。街なかの一つの敷地にかつては9棟もの蔵があったことを併せて考えても、マルタニ長谷川家がいかに大きな商家であったかを一つ一つの建築材料が物語っています。
山形の蔵文化の大きな特徴の一つが、「座敷蔵と店蔵が同じ敷地内で共存している」点にあります。「座敷蔵」は、文字通り土蔵造りの中に座敷がつくられたもので、それが仏間に特化したものが「仏蔵」です。これらは京都・大阪などの上方文化が北前船や最上川の舟運によって山形にもたらしたものとされています。
一方の「店蔵」は、土蔵造りの専用店舗で、1階は店舗スペースとして使われ通りに面して開放的な造りをしています。店蔵は上方ではほとんど見られず、江戸文化が羽州街道や奥州街道などの陸路で直接伝わったものと考えられます。江戸の土蔵造の外壁は黒を原則としているのに対し、上方の土蔵造は白が基調です。山形では店蔵も座敷蔵も荷蔵も多くが白壁であり、上方文化の影響を強く受けながらも独自の進化を遂げているのがわかります。
もう一つ特筆すべきは、座敷蔵の数の膨大さ。山形県教育委員会が今から40年近く前に工学院大学の伊藤ていじ研究室に委嘱して調査した報告書によれば、把握できただけでも山形市内に150もの座敷蔵(全県下では650ほど)が存在していたようです。京都や大阪でさえ今やほとんど座敷蔵が見られなくなったことからすると驚異的な数です。しかもこれは座敷蔵だけの数字なので、他の仏蔵や店蔵、そして一般的な荷蔵を含めると山形には相当の数の蔵があったことがうかがい知れます。
それでも戦後、市街地が再開発されたり家の代替わりが進んだりするなかで、夥しい数の蔵が失われたと思われますが、2002年から活動を始めた芸工大の「ヤマガタ蔵プロジェクト」の成果でもある蔵オビハチや蔵ダイマスなど、21世紀に入り蔵の利活用事例も垣間見られるようになり、最近では「紅の蔵」「水の町屋七日町御殿堰」「gura」などまちづくりの一環としても積極的に活かされるようになりました。
しかし何故ここまで山形に蔵、とりわけ座敷蔵が根付き残されてきたのか。それは単に商家としての資本力の誇示や防火上有効だったという話だけではないような気がします。このところ、パッシブハウスや超断熱超気密のエコハウスの重要性が盛んに謳われるようになってきました。そうした省エネ性能の高い家では何より外皮の断熱性能の高さが求められ、壁や屋根で200~300ミリを超える断熱材が当たり前のようになってきています。
座敷蔵もまた壁や屋根が300ミリを超える厚い土壁で覆われ、二重の置き屋根で通気を取ったり、床ガラリ、厚く気密性の高い蔵戸など、多くの共通点があり実際に夏は涼しく冬は暖めやすい空間になっていて、現代のエコハウスにも通じる理に適った建築であることを今更ながらに実感します。
山形市は夏は日本一の記録を持っていたほど暑く、冬は積雪もあって冷え込む気候変動の激しい土地だということも座敷蔵が定着した要因の一つに挙げられそうです。座敷蔵のこうした環境性能的な側面でも今後もっと見直され、取り壊されることなく家づくりや街づくりに活かされていくことを望むばかりです。
(参考文献)
・やまがた観光大辞典 知る。伝える。はじめての城下町山形観光見聞録 社団法人山形市観光協会発行
・昭和58年度 山形県蔵座敷等調査報告書 山形県教育委員会発行
・蔵のたね ヤマガタ蔵プロジェクト発行
・山形大学歴史・地理・人類学論集 第9号所収「山形長谷川家の商業活動 ―「奥羽の商都」の巨大紅花商人―」 岩田浩太郎著